三木合戦ゆかりの地めぐり その27 ~高砂城跡(高砂神社)~

続いて訪れたのは、加古川市の西隣の高砂市にある高砂城跡
現在、高砂城跡は高砂神社となっています。

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高砂城の正確な起源は不明ですが、『高砂市史・高砂町市史』によると、梶原氏が治める城として天文7年(1538年)に登場しています。
その後、高砂城が「海城」として改めて歴史上の記録に登場するのが三木合戦のときだそうで、三木城主・別所長治の傘下だった当時の高砂城主・梶原平三郎衛景秀は、最後まで三木城への兵糧の供給基地として、播磨灘の海上を押さえていました。
そこで、羽柴秀吉はこの高砂からの兵糧の道を絶とうと高砂城攻めを開始し、1000の軍勢で攻め込みますが、景秀は300余りの兵で、一時は秀吉軍を撃ち破ったといいます。
しかし、結局は多勢に無勢、大軍の前にあえなく落城してしまいます。

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時は流れ、関が原の合戦後に池田輝政が播磨に入り、姫路城を築きましたが、そのとき同時に播磨の海の守りを固めるために高砂城も築きます。
そして中村主殿助正勝が城主となり、大規模な構えの城を形成させ、高砂は城下町として生まれ変わりました。

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立葵の紋を持つ山門をくぐると、左手に「池田輝政公高砂城趾」の石碑が建てられています。
で、その先に銅像が・・・。

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このロケーションからいえば、銅像は池田輝政のものと思いますよね。
ところがところが、そばにあった説明板を見てみると、銅像の主は工楽松右衛門という18世紀の人物で、帆布を発明した人なんだとか。
これって、絶対勘違いしますよね。

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ここ高砂神社は、かなり昔からこの地にあった由緒ある神社ですが、輝政が築城する際、当社を西北の松林に遷座したそうです。
しかし、元和元年(1615年)に出された『一国一城令』により高砂城が廃城となると、寛永2年(1625年)、ときの姫路藩主だった本多忠政が、当社をこの地に戻したんだそうです。

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「高砂」の地名は、あの「たかさごや〜」の高砂ですね。
境内にある「相生の松」は、能の舞台に描かれている松だそうです。

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霊松殿という建物の中には、本多忠政が植えたという三代目相生の松の幹が神木として保存されています。

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二代目相生の松は、三木合戦のときに焼けてしまったそうです。
現在の相生の松は五代目だそうです。

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それ以外にも、かなりの樹齢であろう巨樹がたくさん目につきます。

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ただ、この高砂神社の場所にあった高砂城は輝政の建てた近世高砂城であり、三木合戦のときの高砂城が同じ場所にあったかどうかは定かではないようです。

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神社境内の隅にが無造作に積み上げられていた石材を、何の気なしに撮影してきたのですが、あとからネットで調べてみると、この中に矢穴を持つものが含まれていたそうです。
ちゃんと見れば良かった・・・。

そろそろ飽きてきた観がありますが、もう少しお付き合いください。



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by sakanoueno-kumo | 2015-06-26 18:14 | 三木合戦ゆかりの地 | Comments(0)  

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