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花燃ゆ 第28話「泣かない女」 ~伊藤俊輔、井上聞多の留学と、下関戦争の講和談判~

 ドラマは未亡人となった奥御殿に入る「大奥編」に入りましたが、残念ながらわたしは文の奥御殿勤めの逸話をほとんど知りませんので、当ブログはあくまで長州藩を中心とした幕末の情勢に終始します。

 時は遡って、禁門の変(蛤御門の変)の1年以上前、長州藩は極秘で5人の若者を英国に留学させていました。メンバーは伊藤俊輔(博文)、井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、野村弥吉(井上勝)で、いずれも維新後それぞれの分野で活躍することになる人物ですが、そのなかでも特に伊藤俊輔と井上聞多は、政府高官となる人物として周知のところだと思います。この当時、攘夷の先鋒藩だった長州藩が西洋に留学生を出すなど矛盾した政策でしたが、これを企画実行したのは、このとき藩政の中心にいた周布政之助だったようです。周布は、攘夷論を表向きは肯定しながら、一方で、攘夷が不可能であることも感じ取っていました。そこで、来るべき西洋化の時代に向けての人材養成の必要性を感じていましたが、藩内は攘夷の狂気が絶頂のなか、表だった留学生派遣は不可能で、5人はあくまで「秘密留学生」としての密出国でした。周布のこのときの機転がなければ、伊藤や井上ののちの栄達はなかったかもしれませんね。

 留学した伊藤らは西洋との国力の違いを目の当たりにし、攘夷がいかに無謀な政策であるかを痛感しますが、彼らの留学中に長州藩は馬関海峡で攘夷を決行し、更に八月十八日の政変で京のまちを終われ、政局はめまぐるしく変わっていきました。留学先の英国の新聞で長州藩の現状を知った伊藤と井上は、藩の危機を案じ、他の3人の制止を聞かずに帰国を決意します。ふたりの英国滞在はわずか半年、中途半端な留学となりましたが、他の3人がその後、単なる西洋仕込みの知識人というだけに終わったことを思えば、ここが伊藤と井上の人生のターニングポイントだったといえるかもしれません。

 ふたりが帰国した約1ヵ月後に禁門の変が起こり、長州藩は瀕死の敗北を喫しますが、その翌月には、朝廷より勅許を得た幕府から長州征伐の軍令が下り、さらに時を同じくして元治元年(1864年)8月5日には、前年の馬関海峡における砲撃事件の賠償交渉が遅々として進まないことに業を煮やした英仏米蘭の四ヵ国連合艦隊17隻が、馬関海峡に姿を現し、一斉に砲撃を開始しました。まさに、泣きっ面に蜂とはこのことでしょう。このときの長州藩は、国内外すべてを敵に回した究極のいじめられっ子でした。

 8月8日、長州藩の降伏が決定すると、その講和の席に誰を送り込むかを思案した結果、外国人相手に交渉できる胆力があるのは高杉晋作しかいないだろう、ということになります。このとき晋作若干24歳。ついこの前まで罪人として獄に繋がれていた若造が、いきなり藩代表として事にあたるわけですから、いかにこの時期の長州藩上層部に人材がいなかったかがわかります。しかし、150石の身では藩代表とはなれないため、臨時で藩筆頭家老である宍戸家の養子ということにし、名を宍戸刑馬として交渉にあたりました。そしてその通訳官として、英国帰りの伊藤と井上が同席することになります。ふたりはこのために帰ってきたようなものですね。

 談判の席において連合軍はさまざまな条件を突きつけてきますが、そのなかで、彦島を(香港のように)百年ほど租借地にさせてくれとの要求があったといいます。晋作は、他の条件はほぼ受け入れたたのに対し、この要求は頑として拒否します。後年の伊藤の回想によると、このとき晋作は、古事記、日本書紀の講釈をはじめたといいます。
 「そもそも日本国なるは高天原よりはじまり、はじめ国常立命ましまし、つづいて伊弉諾・伊弉冊なる二柱の神現れ・・・」
 と、他の長州藩士も連合国側も呆然とするなか、延々と説き続けました。つまり晋作がいうところは、日本は神代より一民族の国家であり、1センチ四方の土地とて譲ることは出来ないということでしたが、その結論に至るまで、およそ2日間日本の歴史を説き続けたといい、相手が呆れて止めても聞かず、最終的には、相手側が疲れ果てて「もういいよ」と、租借の要求を撤回しました。租借地=植民地化ということを、上海を見てきた晋作は十分知っていたのでしょうが、これを取り下げさせた晋作の交渉術は、見事というべきか無茶苦茶というべきか・・・。いずれにせよ、もし租借の要求を受け入れていれば、日本の歴史はずいぶん変わっていたかもしれませんね。このときの晋作の様子を、英国通訳官だったアーネスト・サトウはのちに、「戦争に負けたくせに『魔王』の如く威張っていた」と描写しています。

 魔王の働きによって連合国との講和は決着をつけましたが、長州藩の試練はまだまだ続きます。


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by sakanoueno-kumo | 2015-07-14 17:24 | 花燃ゆ | Trackback(1) | Comments(4)  

Tracked from 郎女迷々日録 幕末東西 at 2015-07-17 00:53
タイトル : 珍大河『花燃ゆ』と史実◆28回「泣かない女」
 珍大河『花燃ゆ』と史実◆27回「妻のたたかい」の続きです。  この見出し絵なんですが、楊洲周延の「千代田之大奥 おたち退」です。江戸城が火事となったときの避難の様子を描いているようなのですが、すでに大奥も昔語りとなりました明治の作品ですので、私は、その...... more
Commented by 50代の歴史好きオッサン at 2015-07-14 18:01 x
いつもためになるブログありがとうございます。
毛利藩が萩から急遽山口に引っ越してきてすぐなのに、かなり大がかりな「奥」の物語に疑問を覚え、このブログならなにか理解する手がかりがあるかと思いましたが・・・。これはやはり「篤姫」効果を狙ったものでしょうか?大体城主の本妻は江戸に人質に取られているはずで、山口に居ないはず。長州征伐が下され、正妻は見たことのない山口に赴任した可能性なら。と、おもったら篤姫の教育係だった、松坂慶子が正室だったのは笑ってしまいました。前回の大阪城のレポートおもしろかったです。昨年遊びに行きましたが、JRからも地下鉄駅からも遠かったです。60前のオッサンにはきつかったです。
Commented by sakanoueno-kumo at 2015-07-14 18:48
< 50代の歴史好きオッサンさん

>「篤姫」効果を狙ったものでしょうか?

大いに有り得るでしょうね。
わたしは「篤姫」はいい作品だったと思っているのですが、あれが上手くいったのは、天璋院に「幕府大奥を閉じる役割を与えられた女性」というテーマを与え、世情の話はほどほどに、一貫して大奥の話に終始したからだと思います。
物語の舞台も「桜田門外の変」以前の、まだ世の中がそれほど動く前の時代背景が長かったですしね。
今回の物語は、長州藩奥御殿を描くことがそれほど重要だとは思えませんし、時代背景も、これから慶応年間に入っていくいちばん重要なときで、奥御殿ドラマを見ている場合か?・・・という気はしないでもないです。
松蔭が死に玄瑞が死に、文の存在感を保てないというのがいちばんの理由でしょうね。
一昨年の当ブログの「八重の桜」総評の稿で、「史実・通説を丁寧に描いたことにより、主役である八重の存在感がなかった」と述べさせてもらったのですが、主人公を存在感を無理やり出そうとすると、こうなっちゃうんですね。
無名の人物を描くのは難しいですね。

>城主の本妻は江戸に人質に取られているはず

いや、それはこの2年前に行われた文久の改革によって、妻子の帰国が許されています。
結果として、この条件緩和が幕府の弱体化に繋がるんですけどね。
だから、松坂慶子・・・じゃなかった。正妻が山口にいても間違いじゃありません。
でなければ、幕府を敵に回すなんてぜったいできなかったでしょうから。
Commented by 50代の歴史好きオッサン at 2015-07-15 11:07 x
>それはこの2年前に行われた文久の改革によって、妻子の帰国が許されています。

ありがとうございました。自分の勉強不足を棚に上げての番組批判はいけませんでした。勉強になります。
Commented by sakanoueno-kumo at 2015-07-15 17:14
< 50代の歴史好きオッサンさん

たぶん、貴兄と同じ勘違いで批判している人がたくさんいるんじゃないでしょうか?
今度、奥御殿の話を本文中で書く機会があれば、そのことについてもふれておこうと思います。
ただ、わたしも、気付かずに間違った情報を発信している場合があるかもしれませんので、そのときは、どうかご指摘くださいね。

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