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花燃ゆ 第31話「命がけの伝言」 ~高杉晋作の大演説~

 第一次長州征伐後に藩の実権を手中にした俗論党の首領・椋梨藤太は、次々に正義党派閥の者たちを槍玉にあげ、片っ端から処刑していきます。身の危険を感じた高杉晋作は、海を渡って筑前国福岡藩に逃れ、同藩志士の月形洗蔵や女流歌人・野村望東尼の庇護を受けます。桂小五郎禁門の変以後、但馬国出石藩に身を隠したまま。井上聞多は刺客の襲撃により瀕死の重傷を負い、伊藤俊輔は別府温泉に逃げていました。つい数ヶ月前まで長州藩を動かしていた男たちが、あっという間に政治の外側に追い出されてしまいます。

 晋作がつくった奇兵隊をはじめとする諸隊も、すべて解散を命じられ、萩城下から追い出されました。彼らは長府の功山寺近くに集まり、今後の去就についての相談を繰り返しますが、なかなか意見の一致をみません。強いリーダーシップを持った人物がいなかったんですね。このときの奇兵隊総督は赤禰武人でしたが、赤禰は俗論党に取り行って隊の存続を図ろうとしていました。それを潜伏先で知った晋作は、再び長州の地に戻って俗論党打倒することを決意します。

 戻ってきた晋作は、諸隊らの駐屯地にふらりと顔を出します。このとき赤禰は不在でした。そこで晋作は、「今こそ立ち上がるべきときである」と、隊士たちに激をとばしますが、なかなか皆、乗ってきません。俗論党による粛清の嵐に、行き場を失った諸隊士たちのモチベーションはダダ下がり状態で、晋作の攻撃的な策より、赤禰の進める俗論党との融和策のほうが、現実的だと思えたのでしょうね。無理もないことだったでしょう。ここに集まる諸隊士たちはわずが80人ほどで、弱体化したとはいえ数千人はくだらない長州藩正規兵が相手では、衆寡敵せずと見るのが当然でした。

 そんな彼らの反応を、赤禰の政論に毒されているとみた晋作は、次のように吠えます。

 「赤禰とは何者なるか! 大島郡の土百姓ではないか! これに反してこの晋作は、毛利家譜代恩顧の士である。武人の如き匹夫と同一視される男児ではではない!」

 身分階級にとらわれない奇兵隊を創設した晋作の言葉とは思えない暴言ですね。同じく土百姓あがりが多数いる諸隊のかれらは、晋作の言葉にドン引きします。これまた無理もありません。晋作が言いたかったことは、自分のような譜代恩顧の士暴挙をやろうといっているのだから、これは藩のためであり、実は暴挙ではなく忠義そのものなのだ、ということでした。ドラマでは、それに近い台詞を吐いていましたね。実際の晋作は、言葉足らずでかなり誤解をまねいたようです。このときの晋作について司馬遼太郎氏は、小説『世に棲む日日』のなかで、「晋作という男は直感で物事を判断する資質には富んでいたが、理屈で相手にわからせるという能力に欠けていた」と分析しています。天才にありがちな欠陥かもしれません。

 そしてここで、晋作は沈黙する隊士たちに向けて、後世に有名な大演説をぶちます。

 「もし諸君が僕の意見を聞いてくれないとすれば、もはや諸君に望むところはない。ただ従来の旧誼に甘え、一頭の馬を貸してもらいたい。僕はその馬で萩へ駆けつけ、御両殿様に直諫する。もし、御両殿様に受け入れてもらえなければ、その場で腹を掻っ切り、臓腑をつかみだし、城門へそれをたたきつけて、御両殿様のご聡明をめぐらし奉ろうと存ずる。萩への途中、もし俗論等にはばまれて斬殺されるとも、あえて厭わぬ。いまの場合、萩に向かって一里ゆけば一里の忠を尽くし、二里ゆけば二里の義をあらわす。尊皇の臣子たるもの一日として安閑としている場合ではない。」

 この演説は、長州維新史料のあらゆるところに記録されているそうで、よほど当時、語り伝えられたのでしょう。高杉晋作のいちばんの見せ場といえるかもしれません。ただ、このとき諸隊士たちは晋作の迫力に圧倒されますが、この時点ではまだ、誰一人晋作とともに立ち上がろうとする者はいませんでした。まさに、たった一人の決起。ここから、晋作の奇跡の大逆転劇がはじまります。


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by sakanoueno-kumo | 2015-08-03 16:57 | 花燃ゆ | Trackback(1) | Comments(0)  

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