2015夏休み但馬路紀行 その2 「生野銀山」
生野銀山は、古くは平安時代に開坑され、昭和48年まで採掘されていた日本有数の銀山です。
現在は観光用テーマパークとなっています。
入口には、菊のご紋が入った石門があります。
つまり、ここは天皇家の鉱山だったってことですね。
享保元年(1716年)、第八代将軍・徳川吉宗の時代に置かれた「生野代官所」跡です。
生野銀山の開坑は大同2年(807年)と伝えられますが、本格的に採掘が始まったのは戦国時代で、室町年間の天文11年(1542年)に但馬守護職・山名祐豊が銀石を掘り出したことに始まったとされます。
そして永禄10年(1567年)には、自然銀を多く含む日本最大の鉱脈(慶寿ひ)が見つかったそうで、当時の銀山旧記には、「銀の出ること土砂のごとし」と記されているそうです。
その後、織田信長も豊臣秀吉も徳川家康も、この地を直轄地としました。
土砂のように銀が出たんだから、時の権力者が黙っているはずがありませんね。
この近くには、日本のマチュピチュとして近年人気の竹田城がありますが、竹田城が時の権力者たちに何度も攻撃されたのも、当時、竹田城が生野銀山を管轄していたという背景があったからです。
その後、第八代将軍・吉宗の頃に最盛期を迎え、月産150貫(約562kg)の銀を産出したといいます。
金香瀬坑と呼ばれる坑道の入口です。
明治初期、鉱山の近代化のために招聘されたフランスのジャン・フランソワ・コアニエが築造した、フランス洋式の入口だそうです。
坑道のなかは、当時のままの岩肌や、電機仕掛けの人形により再現された作業風景を見ることができます。
中は1年中、約13度の気温に保たれていて、夏真っ盛りなのに寒いくらいでした。
女性も働いていたんですね。
役人だそうです。
どう見ても西洋人にしか見えません(笑)。
五枚合掌支柱組です。
理屈はよくわかりませんが、たぶん、理にかなった構造なんでしょう。
こちらは馬蹄形鋼枠二枚合掌。
たぶんこちらは近代のものでしょうね。
組み方が馬の蹄のかたちに似ていることから、そう呼ばれていたそうです。
「太閤水」だそうです。
天正5年(1577年)、羽柴秀吉がこの地に入ったときにこの水を飲み、その美味しさに激賞し、茶をたてたという伝承があるそうです。
それにしても、但馬や播磨地方には、「太閤◯◯」といった伝承の史跡が多いですね。
先般、「明治の日本産業革命遺産」と銘打った日本各地23ヵ所の史跡が、一斉に世界遺産登録となりましたが、ある意味ここも、それらの世界遺産に匹敵する史跡だと思います。
1200年の歴史を持った鉱山なんて、そうないんじゃないでしょうか?
現在ここは、日本の「近代化産業遺産」に指定されています。
次稿は、この近くにある「生野城跡」を訪れます。
2015夏休み但馬路紀行 その1 「石ケ堂古代村」
2015夏休み但馬路紀行 その3 「生野城」
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by sakanoueno-kumo | 2015-09-03 19:31 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)