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花燃ゆ 第48話「富岡製糸場の危機」~楫取素彦の功績~

 平成26年(2014年)にユネスコ世界文化遺産に登録された富岡製糸場は、明治5年(1872年)に創業した官営製糸工場でした。場内には繰糸器300基も設置され、工女200人(のち約400人)が雇用されるなど、当時としては世界屈指の規模を誇っていました。また、労働条件は1日8時間の週休制で、食事や寮も完備され、医療費も無料という当時の日本では異例の好待遇だったそうです。そんなこともあって、全国から集った工女のなかには、元士族の娘も多く、長州藩出身の長井道子長井雅楽の娘)の姿もあったそうです。「産業」と呼べるものがほとんどなかった当時の日本にとって、富岡製糸場で生産される生糸は、日本が唯一世界に誇れる国産品でした。

 ところが、明治13年(1880年)11月5日、富岡製糸場は採算を度外視した経営が祟り、明治政府は民間への払い下げを決定します。当時の明治政府には、赤字続きの官営工場を維持するだけの体力はありませんでした。今でいえば、民営化推進の構造改革ですね。この時点での政府の判断は、決して間違いではなかったでしょう。明治政府は、民営化が上手く運ばなければ、閉場も辞さないという強硬な態度を示します。

 当時の群馬県令だったかとり楫取素彦も、当初は民間払い下げについて賛同の意向だったそうですが、しかし、閉場には大反対。払い下げが上手く運ばない状況を見ると、これは猶予ならぬ事態として、即座に官営の継続を政府に請願しています。明治14年(18881年)11月、素彦は農商務卿・西郷従道の元を訪れ、官営存続の請願書を提出しました。その際、民間払い下げのメドがつくまで官営を継続するよう強く口頭で要請したそうです。

 また、素彦は富岡製糸場を閉場させないために、元前橋藩士で、この当時、農商務省に出仕していた速水堅曹と協力して、県内の生糸産業の有力者に直輸出専門の商社創立を説いてまわりました。そして、明治13年(1880年)12月には、生糸直輸出商社である「横浜同伸会社」を資本金10万円で創設しています。社長には速水堅曹が就任し、会長には星野長太郎。そしてその長太郎の弟・新井順一郎は取締役兼ニューヨーク支店長となり、直輸出の体制をつくりあげました。幕末の安政6年(1859年)に幕府大老・井伊直弼によって開港されて以来21年、楫取県政によって日本の直輸出がようやくスタートします。

 その後、直輸出の向上とともに富岡製糸場の経営も好転し、やがて10数年が過ぎた明治26年(1893年)に三井家が払い下げに応じ、以後、経営母体が代わりながら、昭和63年(1987年)に閉鎖となるまで、実に105年間操業し続けました。閉鎖後も最後の所有者である片倉工業が毎年1億円のコストをかけて保全修理につとめ、そして昨年、ユネスコ世界遺産に登録されるに至ります。

 もし、素彦が閉場差し止めの請願を行っていなければ、あるいは明治政府によって富岡製糸場は破却されていたかもしれません。そうなっていれば、世界遺産・富岡製糸場は存在しなかったわけで、素彦の大きな功績のひとつといえるでしょうね。民間でできることは民間で・・・小泉政権のときによく耳にした言葉ですが、まあ、間違いではないと思いますが、それもタイミングが必要ということでしょう。明治初期の富岡製糸場は、赤字経営でも国が面倒を見る必要があった、ということですね。


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by sakanoueno-kumo | 2015-11-30 17:26 | 花燃ゆ | Trackback(1) | Comments(0)  

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