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真田丸 第9話「駆引」 ~天正壬午の乱・後編~

 上杉氏との激突を避けた北条氏直は、矛先を徳川家康が侵攻していた甲斐方面に転換します。これを受けた徳川軍は、新府城能見城を拠点に北条の大軍を迎え撃つ姿勢を見せますが、兵力では圧倒的に劣るため、うかつに手出しできない状況にいました。一方の北条軍も、新府城にほど近い若神子城に本陣を布きますが、徳川軍の固い守りを崩す手立てが見出せず、戦況は長期戦の様相を見せます。ただ、兵力の差を見れば、北条軍約4万に対して徳川軍約8千。徳川軍が圧倒的不利な状況に置かれていたことは間違いありません。

 そこで活躍したのが、ドラマには出てきませんでしたが、徳川方に与していた依田信蕃でした。依田信蕃は、信濃国の国衆のほとんどが北条氏に与するなか、唯一、徳川方についた武将でした。信蕃は隅をみて北条方の諸城を攻め込み、更に北条軍に兵糧を運ぶ荷駄隊を襲うといったゲリラ戦を展開し、小部隊ながら孤軍奮闘します。これを知った家康は、援軍千余人と軍資金を送って信蕃を援護します。

 しかし、兵力が増えた分、依田軍は兵糧不足に苦しむようになり、なかなか大きな戦果が挙げられませんでした。そんななか信蕃が目をつけたのが、北条方に従属していた真田昌幸でした。信蕃は、かつて同じ武田家の家臣として昌幸とは昵懇であり、なんとか昌幸を味方に引き入れ、事態の好転を図りたいと考えます。そこで信蕃は、徳川家の重臣・大久保忠世を通して家康に説き、昌幸懐柔のための判形(所領宛行を約束する手形)を用意して密使を派遣しました。

 信蕃からの和睦交渉を受けた昌幸は、所領安堵を条件にあっさりとこれに同意。実は、昌幸は既に徳川氏への従属を視野に入れており、上杉氏から逃亡した実弟・真田信尹を、徳川氏配下に送り込んでいました。織田氏、上杉氏、北条氏と短期間で従属を変えた真田家は、またしても短期間で北条氏を裏切り、徳川氏の傘下に入ることを決めます。なんとも節操ない話にも思えますが、これも小県の国衆の生きる道。このまま北条氏の傘下にいれば、自領の沼田城岩櫃城を取り上げられる恐れが見え始め、昌幸としては、それは最も避けたいことでした。

 信繁「父上は思い通りに事を進めるためには、どんなことでもなさるのですか?」

 昌幸「当たり前じゃ。お前は策とは何かを知らんようじゃ。」

 信繁「知りたくありません」

 ドラマ中、策略家としての父に不信を抱いた信繁が父に楯突いたシーンですが、その後、思い悩む信繁に対してが、

 「大事なのは人の命を出来る限り損なわないこと・・・そんな気がいたします。源次郎様のお父上は、それをわかってらっしゃるのではないですか?」

と言い、ハッとさせられるシーンがありましたね。まさしく、昌幸の打つ「策」というのはこのことで、それは人命尊重というヒューマニズムの観点からのそれではなく、いかに自軍の兵力を失わずに立ちまわるかというのが、強者の中での弱者の生きる手段だったからです。彼ら国衆にとっては、領地領民を守ることが最優先課題であり、「忠義」とか「誇り」といった概念は、のちの江戸時代に比べて極めて希薄でした。自己の誇りを守って領地領民の命を粗末にしていたんでは、誰もついてきませんからね。その意味で、今話の梅の台詞は、今後の真田家の動向を観る上でも重要な台詞なんじゃないかと。

 さて、こうして北条氏を見限って徳川氏についた昌幸は、依田信蕃と連合軍を形成して小諸城を攻め、北条方の補給路を絶つなどの活躍を見せますが、その後、事態は思わぬ展開を見せます。北条氏と徳川氏が和睦、同盟を結ぶんですね。かくして天正壬午の乱は終結に至るのですが、その北条氏が提示した同盟の条件というのは、真田家にとってはおよそ受け入れ難いものでした。



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by sakanoueno-kumo | 2016-03-08 14:59 | 真田丸 | Trackback | Comments(0)  

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