朝ドラ『あさが来た』で知ったびっくりポンな女傑、広岡浅子。 その2
幕末から維新にかけての動乱のなか、一時は傾きかけた加島屋でしたが、なんとか持ちこたえました。
そこには、広岡浅子の力が大いに関係していたと言われます。
ドラマでは、嫁入りして間もない浅子が借金返済を求めて藩の蔵屋敷に何度も押しかけるシーンがありましたね。
何度足を運んでも相手にされず、加子部屋(足軽部屋)で荒くれ男に囲まれながら一夜を明かし、結局借金を返済させることに成功しますが、このエピソードは明治37年(1904年)に雑誌『実業之日本』に載った浅子についての記事「本邦実業界の女傑」によるものだそうです。
まあ、雑誌の記事というのは、今も昔も、どこまで信用していいかは微妙ですが、ただ、浅子自身もこのときのことについて述懐しているそうで、それに近い出来事があったことは嘘じゃないでしょうね。
また、明治14年(1881年)に加島屋から高松藩松平家に宛てて出された借金の赦免願とそれに対する回答が朱筆された書状が現存しており、それによると、高松松平家に対する12万2600円(現在の貨幣価値に換算すると約6億3000万円)の借金の返済を、その四割を即納することにより、残り六割を免除することを認めさせているそうで、この書状は差出人が「広岡久右衛門」とあるとともに、「同信五郎 代アサ」と、本来名義人になれないはずの浅子の署名と押印があるそうです。
浅子が交渉に関係していたことは間違いないでしょうね。
『実業之日本』では、当時の加島屋での浅子について、こう記されています。
「而して浅子は加島屋唯一の君主として、上は店長より下は小僧に至るまで、任免黜陟(功績に応じて役職を上げ下げすること)に大権を掌握し、総会等には必ず自身に出席しつつ満場の視線を己れに集めるのみか、本支店とも時々巡視して業務の成績を検閲するなぞ、其の手腕の凄じさ、人をしてアッと謂はしむることが多い・・・」
当時の法律では、「夫と死別した場合」など一部の例外を除き、女性が戸主にはなれませんでしたが、実質の経営者は、ドラマのとおり浅子だったようです。
その後、ドラマのとおり浅子は鉱山経営に乗り出してその名を轟かせ、そして明治21年(1888年)には夫・信五郎や義弟・正秋とともに加島銀行を発足させ、明治35年(1902年)には大同生命を設立。
ドラマにもあったように、女性の銀行員をはじめて採用したのも浅子でした。
女性経営者だからこその人材登用だったといえますが、それは、同じく女性であった浅子を経営に参加させた、先代からの加島屋の家風が生んだものだったかもしれません。
そしてその人材育成の情熱は女子教育へと注がれていくんですね。
炭鉱、銀行と忙しい日々を送っていた浅子は、明治29年(1896年)、加島銀行のすぐ近くにあった梅花女学校の校長を務めていた成瀬仁蔵に出会います。
成瀬は女子大学設立の構想を抱いており、援助してくれる人物を求めていました。
そんななか、浅子というスーパーウーマンを知ります。
ドラマでもありましたが、浅子は成瀬の『女子教育論』を読んで、「感涙やまなかった」と語っています。
成瀬の理想に感銘を受けた浅子は、強力な後援者となり、明治34年(1901年)、東京に日本女子大学を設立するに至りました。
津田梅子や新島八重、大山捨松など、同時代の女子教育に尽力した女性は他にもいますが、浅子以外はすべて武家出身者。
商家に生まれた女性としては、浅子だけだったんじゃないでしょうか?
男尊女卑が当たり前の時代、内助の功的な働きをした女性はたくさんいたでしょうが、表舞台で男顔負けの活躍した浅子は、たいへん稀有な存在だったでしょう。
ホント、びっくりポンな女性ですね。
ただ、そんな浅子を生んだのは、夫の理解、協力があったからといえます。
男女の区別なく、才能ある者を認め育てるという気風が、浅子の周りにあったということですね。
次回に続きます。
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by sakanoueno-kumo | 2016-03-16 12:36 | その他ドラマ | Trackback | Comments(0)