神戸の古墳めぐり その4 ~処女塚古墳・西求女塚古墳・東求女塚古墳~

神戸市東灘区御影町に、処女塚(おとめづか)古墳という全長約70m前方後方墳があるのですが、その処女塚を中心に東西約2kmの位置に、東求女塚西求女塚と呼ばれる古墳があります。

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その名称から連想されるように、この3つの古墳には、男女の三角関係の悲恋話が古くから伝わります。

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太古の昔、現在の神戸市東部から芦屋市にかけて、大阪湾沿岸の湿地に茂る芦を屋根にふいて葦屋(あしのや)と呼ばれていたそうですが、伝承によれば、その葦屋に菟原処女(うないおとめ)という可憐な娘がいて、多くの若者が思いを寄せていたといいます。

なかでも、同じ里に住む菟原壮士(うないおとこ)と、和泉国から来た茅渟壮士(ちぬおとこ)という二人の男が彼女を深く愛し、激しく争うことになりました。

これに心を傷めた処女は身を処しかね、嘆きつつ自ら命を絶ってしまいます。

処女の死を知った壮士たちは深く悲しみ、二人とも後を追いました。

親族たちは、このことを長く語り継ごうと、処女の墓を中央に、壮士たちの墓を両側に作ったと伝えられます。

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この『菟原処女の伝説』は、古くは『万葉集』にも歌が残されており、奈良時代から語り継がれてきたそうです。

しかし、発掘調査によると、実際には築造時期がそれぞれ異なっているそうで、事実とは考えられないようですね。

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処女塚古墳には、もうひとつの伝承があります。

建武3年(1336年)に起きた「湊川の戦い」で、敗れた新田義貞が敗走の途中この地に立ち寄り、処女塚に登って敵を防いだといいます。

このとき義貞に従っていた小山田高家という武将は、自身の馬に義貞を乗せて逃し、身代わりとなって討死したと伝わります。

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処女塚古墳の片隅には、弘化3年(1846年)に建てられたと伝わる小山田高家の石碑があります。

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上の写真は、東求女塚古墳

『菟原処女の伝説』で言うところの茅渟壮士の墓です。

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現在は公園になっていて、塚の原型は留めず石碑だけが建てられています。

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そして、こちらは西求女塚古墳

『菟原処女の伝説』で言うところの菟原壮士の墓です。

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こちらも公園となっているのですが、こっちの方は、全長約95m前方後方墳の形が復元されています。

発掘調査によると、卑弥呼の鏡と言われる三角縁神獣鏡をはじめ、たくさんの埋葬品が出土したそうで、ヤマト朝廷と深く関わりを持った豪族の墓と考えられているそうです。

築造時期は3世紀後半で、神戸市内では最も古い古墳だそうです。

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(『摂津名所図会』より。生田川に浮かぶ水鳥を射んとする2人の男と見守る菟原処女)

いまは、ビルなどの建物に隠れてそれぞれの古墳は見渡せませんが、当時は、きっと処女塚を中心に東西に古墳が見渡せて、こんな伝承が生まれたのでしょう。



神戸の古墳めぐり その1 ~五色塚古墳と小壺古墳~
神戸の古墳めぐり その2 ~吉田王塚古墳~
神戸の古墳めぐり その3 ~狩口台きつね塚古墳~
神戸の古墳めぐり その5 ~大歳山遺跡公園・舞子古墳群~

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by sakanoueno-kumo | 2016-04-06 21:45 | 神戸の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

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