真田丸 第14話「大坂」 ~石川数正出奔と天正大地震~

 第一次上田合戦で徳川軍に勝利した真田昌幸でしたが、しかし、徳川軍はこの敗戦で壊滅的な打撃を受けたわけではなく、このあとも撤退することなく兵を留め、再び上田城を攻撃するべく体制の立て直しをはかります。徳川家康にしてみれば、真田氏ごとき一国衆に敗北したとあっては、同盟関係にある北条氏に対しての面目がたたず、意地でも上田城を落として真田氏をぶっ潰す必要があったのでしょう。家康は井伊直政、松平康重らの重臣に5000の兵を預けて援軍に向かわせたといいます。

 ところが、それもつかの間の天正13年(1585年)11月、徳川軍はとつぜん全軍の撤退を開始します。その理由は、徳川家の重臣で三河国岡崎城の城代を務めていた石川数正が、一族妻女や岡崎にいた小笠原貞慶の人質らを連れて突如出奔し、羽柴秀吉のもとに身を寄せたからでした。数正は家康が子供の頃から徳川家に仕えてきた重臣中の重臣で、その数正が秀吉方についたということは、徳川方のあらゆる情報が羽柴方に筒抜けになることを意味します。事態を知った徳川方の動揺混乱は激しいものだったといいます。この徳川軍のとつぜんの退却によって、昌幸の上田城は徳川軍の2度目の総攻撃を免れました。

e0158128_17234559.jpg 石川数正が徳川氏を裏切った理由については諸説ありますが、徳川氏と羽柴氏の板挟みにあったためとするのが通説となっています。ドラマのように、裏で真田信尹が調略していたという史料は存在せず、オリジナルでしょう(もっとも、それを否定する史料もありませんが)。数正は家康の命令で徳川家における羽柴氏との交渉役を務めており、前年の「小牧・長久手の戦い」休戦に導いたのも数正の提言からと言われています。その後も数正は取次役として秀吉と頻繁に接触しており、羽柴氏の実力を知れば知るほど、敵対することの不利を感じていたのでしょう。強硬派がほとんどの徳川家中で、消極派の数正は孤立していたといいます。下手をすれば家中で暗殺されかねないと感じた数正は、ついに秀吉のもとに出奔した・・・というのが、通説の推論です。

 石川数正、そして小笠原貞慶の調略に成功した秀吉は、対家康対策をふたたび強硬姿勢に転換、東に兵を向けます。一方の徳川軍も、数正出奔を機に軍制を武田流に改める改革を行い、羽柴軍襲来に備えます。かくして羽柴、徳川両軍の激突が目前に迫った11月29日亥の刻(午後10時頃)、内陸部を中心とする推定マグニチュード7.2~8.1の大地震が、関西、中部地方を中心とする地域を襲いました。世にいう「天正大地震」です。

この地震は家康より秀吉の領国に甚大な被害をもたらし、その結果、家康との開戦どころではなくなってしまいます。そこで、秀吉はこれを機に、打倒家康の強硬策から、上洛を促す融和策へと対家康政策を転換してくことになります。ここも、歴史のひとつの大きなターニングポイントですね。もし、この地震がなければ、徳川氏は秀吉によって攻め滅ぼされていたかもしれず、となれば、のちの江戸幕府250年もなかったかもしれません。そのとき歴史が動いた瞬間だったといえるでしょうか。

 上杉景勝に付き従って真田信繁も上洛し、舞台は大坂に移されました。もちろん、そのような記録は存在しませんが、さりとて、信繁がいつ大坂城に送られたかを知る史料もなく、詳細はわかりません。そのあたりの話は、次回の稿にゆずることにしましょう。



ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ


by sakanoueno-kumo | 2016-04-12 17:27 | 真田丸 | Trackback(1) | Comments(0)  

トラックバックURL : http://signboard.exblog.jp/tb/24297460
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
Tracked from ショコラの日記帳・別館 at 2016-04-13 16:26
タイトル : 【真田丸】第14回(4/10)感想と視聴率「大坂」
「大坂」 第14回の関東の視聴率は、前回の17.5%より下がって、17.1%でし... more

<< 備後福山城のまち逍遥備忘録 そ... 神戸の古墳めぐり その5 ~大... >>