備後福山城のまち逍遥備忘録 その2 「天守」
福山城の天守は昭和20年(1945年)8月8日の福山大空襲で消失し、現在の建物は昭和41年(1966年)に月見櫓、御湯殿と共に復興された鉄筋コンクリート製のものです。
8月8日といえば、同じ広島県内に原爆が投下された2日後、終戦の1周間前ですね。
広島市内では、原爆により8月6日に広島城が大破しています。
戦争は多くの人の命を奪いましたが、同時に、わが国の歴史的遺産も奪いました。
終戦の決断がもう少し早ければ、救われた命も、そして失わずにすんだ文化遺産もたくさんあったでしょうね。
福島正則の改易によって元和5年(1619年)に入封した水野勝成が、3年の歳月をかけて築城した福山城天守は、5重5階地下1階の層塔型の天守でした。
現在の復元城とは、外観はかなり違うようで、「復元」ではなく「復興」に分類されているそうです。
明治維新による廃城後、城はそのまま放置され、天守の傷みは甚だしかったそうですが、その歴史的価値が認められた明治30年(1897年)から修理が行われ、昭和6年(1931年)には、姫路城や松本城と同時に国宝に指定されたそうです。
重ね重ね残念ですね。
この日は本丸広場でイベントが開催されていて、写真を撮るには目障りなテントやらステージやらがあって残念でした。
天守のなかは博物館になっていて、撮影禁止です。
ただ、せっかくなので、天守最上階からの眺望をアップします。
写真は天守南側の本丸広場で、奥の芝生部分が前稿で紹介した伏見御殿跡、その左の櫓は月見櫓、中央が御湯殿、右側に少し見えるのが筋鉄御門で、その横に伏見櫓があるのですが、木に隠れちゃってます。
曇り空でなければ、いい眺めだったのでしょうけどね。
扉の家紋です。
さて、本丸と天守を制覇したので、次回は二の丸をめぐります。
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by sakanoueno-kumo | 2016-04-15 13:14 | 広島の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)