備後福山城のまち逍遥備忘録 その3 「二の丸」
本丸を降りて二の丸を歩きます。
福山城の二の丸は本丸を囲む帯曲輪で、北面以外は幅が狭く、櫓以外に目立った施設は建てられていなかったそうです。
まずは南側から。
いまは桜並木になっています。
上の写真は二の丸南から見上げた伏見櫓です。
こちらは二の丸南から見上げた月見櫓です。
二の丸東には、備後福山藩初代藩主・水野勝成の銅像があります。
猛将として名高い勝成ですが、銅像は知的で上品なお殿様といった感じです。
銅像の横には、ご覧のとおり天守東面がそびえています。
ここ、絶好の撮影スポットです。
青空だったらいい写真になったでしょうけどね。
少し北に進んで、二の丸北東から天守を撮影。
ここも結構、いいポイントかな。
二の丸北側にやってきました。
上の写真は真北から見た天守です。
二の丸北側だけは広い敷地になっていて、かつては城米蔵などが建て並んでいたそうです。
現在はテニスコートがあり、その東には昭和初期に建てられた福寿会館という建物があります。
上の写真は、そこの庭園から見た天守です。
そして二の丸西面に足を運ぶと、阿部正弘の銅像がありました。
備後福山藩の藩主は水野家、松平家、阿部家へと引き継がれますが、最後の阿部家は廃藩置県まで10代に渡って161年間在封し、この間、幕府老中を4人、大坂城代を1人輩出しました。
とくに7代藩主・阿部正弘はわずが25歳の若さで老中首座(現在でいえば内閣総理大臣)に就任したキレ者です。
阿部正弘は、肖像画などを見てもダンディーなイケメンですからね。
正弘は39歳の若さで急死してしまいますが、もし正弘が生きていれば、井伊直弼の大老就任もなかったかもしれませんし、そうなれば、安政の大獄もなかったでしょうから、幕末の歴史は大きく変わっていたかもしれません。
もっとも、正弘はほとんど江戸城にいたでしょうから、ここ福山城で藩政に従事することは少なかったでしょうけどね。
次回に続きます。
備後福山城のまち逍遥備忘録 その5 「備後護国神社(阿部神社)」
備後福山城のまち逍遥備忘録 その6 「水野勝成の墓所・聡敏神社」
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by sakanoueno-kumo | 2016-04-20 21:27 | 広島の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)