備後福山城のまち逍遥備忘録 その6 「水野勝成の墓所・聡敏神社」

福山城から東へ10分ほど歩いたところに、福山藩初代主・水野勝成をはじめとする水野家の墓所があります。


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公道沿いに誰でも気軽に入れるような墓所公園となっていて、厳かな雰囲気ではありません。


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見上げると、交通標識でも案内されています。


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入口はこんな感じ。

「福山開祖水野勝成公墓地」と刻まれた石碑が建っています。


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そして、これが勝成の墓。

墓石の五輪塔は、高さ5.1mの巨大なものです。


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勝成は永禄7年(1564年)三河国刈谷城主・水野忠重の嫡男として生まれます(他の説では刈谷岡崎生まれとも鷲塚生まれとも)。

16歳のときに遠江高天神城攻めで初陣を果たすと、武田勝頼を攻撃した天目山の戦い小牧・長久手の戦いなどに出陣して着々と戦功をあげますが、20歳のときに父との不和がもとで出奔し、その後、諸国を歴遊。

天正13年(1585年)に豊臣秀吉に仕えて以後、佐々成政、小西行長、加藤清正、黒田長政など、名だたる武将に仕えました。


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慶長5年(1600年)に父・忠重が死去すると、徳川家康の命により刈谷三万石を継ぎ、関ヶ原の戦いでは東軍に属しました。

慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、大和口の先鋒として功をあげ(参照:大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その8 ~大和郡山城跡~)、戦後、大和郡山6万石の領主となります。


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そして元和5年(1619年)に福島正則の改易に伴い、備後10万石の福山藩初代藩主となりました。

その後、勝成はこの地で、88歳の長寿を全うします。


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こちらは、父・忠重の墓です。

息子と喧嘩別れした親父でしたが、墓は出世した息子の領地にあるんですね。


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こちらは3代藩主・水野勝貞の墓。

これも、立派な五輪塔です。


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こちらは4代藩主・水野勝種の墓。

2代、5代、6代藩主の墓は、ここにはありませんでした。

福山藩水野家は6代で終わり、以後、阿部氏が10代藩主を務めます。


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ここには、ほかにも一族・家臣の墓が葬られていました。


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場所は変わって福山城の北にある福山八幡宮のなかに、聡敏神社という小さな社があるのですが、ここは水野勝成を祀った神社です。


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社殿には、勝成の絵馬が奉納されています。


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水野家の家紋
ですね。


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400年後の福山のまちにも、藩祖・水野勝成の足跡は各所に残されていました。

以上で「福山城のまち逍遥記」を終わります。

この日は昼前から夕方まで、実に25,000歩も歩きました。



備後福山城のまち逍遥備忘録 その1 「本丸・伏見御殿跡」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その2 「天守」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その3 「二の丸」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その4 「赤門・小丸山」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その5 「備後護国神社(阿部神社)」



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by sakanoueno-kumo | 2016-05-06 16:03 | 広島の史跡・観光 | Trackback | Comments(4)  

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Commented by mm at 2016-05-11 14:22 x
>このとき昌幸が上洛を決意した背景には、秀吉もしくは景勝から、留守中の北条氏牽制についてなんらかの確約がもらえでいたのかもしれません。

とありましたが、ここはなるほど!と思いました。北条問題があるから動きにくいということは知っていましたが、そこまで思い至りませんでした。確かにそのように考えると腑に落ちます。

>そのグループ会社というのが、かつてコンプライアンス違反で契約破棄した企業だったわけです。

このたとえが秀逸で笑ってしまいました。

>はじめから秀吉はそうなることを望んでいたのではないかと・・・。このあとの歴史は、秀吉の描いたシナリオどおりに進んでいった・・・と。

私も、今までの対上杉や対徳川とのやり取りでは、秀吉は自分のシナリオ通りに相手を動かしてきたように描かれていると感じます。今回を見る限りでは秀吉の意図は分かりづらいですが、それは真田目線で視聴者が見るように三谷氏が書いているからかと思いました。


前回、ご回答有難うございました。実は少し前から『真田丸』のためtwitterを始めていたのですが(@mmhinoeuma)、字数制限があって思ったように書くのは難しいですね。もっとも、twitterも本当は時代考証の丸島和洋氏の解説をフォローしたのがきっかけだったんです。自分のブログはTV評とは全然関係ないものだったのですが、そちらの言葉をうかがって、確かに別にブログを設けても良いかなといまさらながら気づきました。『真田丸』専用で作っても良いですね。ちなみに『真田丸』にひっかけて書いた私のエッセイに「天正壬午の乱とセノパティ」、「二項対立の物語」があります。たぶんタイトル名で検索すると出てきます。「水牛のように」というエッセイコーナーに入っています。
Commented by sakanoueno-kumo at 2016-05-11 17:17
> mmさん

いつもコメントありがとうございます。
でも、今回なんでこちらの稿にコメントいただいたのでしょう?

わたしは、先人たちの生き方のなかに、現代を生きるわたしたちが学ぶべきヒントがあると思いながら、歴史ドラマや小説を楽しんでいます。
いわゆる「温故知新」ですね。
実は、わたしは小さな会社を経営しているのですが、真田氏というのは、まさに地方の零細企業と言ってよく、大企業の傘下を点々としながら生き残りの道を求める姿は、痛いほどわかります。
きれいごとだけでは生き残っていけない、でも、自社の誇りは失いたくない・・・零細企業の経営者の苦悩ですね(笑)。

コラム、読ませていただきました。
「二項対立の物語」については、なるほど、よく分析されていると感じました。
ただ、きりへのバッシングに関しては、あのシーンだけだったらそれほど批判も集まらなかったと思うのですが、あらゆるシーンでのデリカシーのない言動を苦々しく思っている視聴者が多く、それが、あのシーンへのバッシングに繋がったのだと思います。
わたしも、なぜあのようなジャジャ馬キャラの女性をヒロインにしたのか、まだ理解できていないのですが、きっと三谷さんのことですから、なんらかの意図があるのでしょうね。
今後の楽しみにしたいと思います。

あと、コラムのサイトでお名前を知ったのですが、女性の方だったんですね。
わたしは、てっきり男性だと決めつけて、コメント返しで「貴兄」などと呼ばせていただいてました(汗)。
たいへん、たいへん申し訳ありませんでした。

Commented by mm at 2016-05-12 02:14 x
すみません、なぜかは分からないのですがコメントの稿を間違えてしまいました。『真田丸』18話の稿にもコメントを残して下さり、お心遣い有難うございます。また、私のエッセイも読んで下さり恐縮しています。

真田の物語に経営者の苦悩が見られるという点、私は零細フリーランスなんですが私もそこに共感します。現在にひきよせて当時のことが共感できる部分と、物語に引き込まれて真田家と同時代に生きている感覚がある、という両面が『真田丸』にはあるような気がします。例年の大河ドラマよりも、経済誌や経営コンサルタントに取り上げられることが非常に多いように感じられます。

今後とも記事を楽しみにしています。それから、最新記事の郡山城、美しいですね。私は奈良県在住で、以前行ったことがあるのですが、あまりちゃんとお城の石垣などを見ていませんでした。『真田丸』で割とお城にも興味が出てきました。お城の記事も楽しみにしています。
Commented by sakanoueno-kumo at 2016-05-12 20:34
> mmさん

過分なお言葉ありがとうございます。
素人の自己満足ブログですが、暇つぶしに読んでいただければ嬉しいです。

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