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真田丸 第43話「軍議」 ~積極策と籠城策~

 大坂城では、徳川方との決戦を前に軍議が開かれます。このとき真田信繁(幸村)は、城を討って出る積極策を献策しますが、大野治長をはじめとする豊臣方の首脳により却下され、籠城策に押し切られた、というのが、一般的に知られるストーリーだと思います。この逸話は、江戸時代に編纂された複数の軍記物に見られる話で、多少の違いはありますが、概ね一致しています。


真田丸 第43話「軍議」 ~積極策と籠城策~_e0158128_02593242.jpg 最も有名なものとしては、豊臣方はまず尾張を奇襲し、そこで小さな勝利を収めたのち、時期をみはからって兵を近江まで下げ、大津の勢田橋、そして京の宇治橋を落として防備を固め、徳川家康を牽制する。そして二条城を焼き払ったうえで大阪城に籠城するというもの。ただ籠城するのではなく、まず前哨戦で小さな勝利を得て敵の出鼻をくじくことが得策で、そうすれば、敵の警戒心を煽り、士気が落ち、そのうち旧豊臣系大名のなかで、大坂方に身を転じる者もでてくるだろうという目論見で、この作戦は、『真武内伝』『武将感状記』などみ見られるものです。しかし、『真武内伝』によると、この策は、当時、大野治長に寄宿していた小幡景憲に却下されます。今回のドラマに小幡景憲は出てきていませんが、のちに甲州流軍学の創始者となる人物で、司馬遼太郎の小説『城塞』では、徳川方のスパイとして大坂城に入った人物として描かれていますね。


 また、『幸村君伝記』によると、大野治長は関ヶ原の戦いで家康の出馬が遅かったために諸大名が気勢を削がれたことを例に出し、家康は「耳臆病」な大将と評価。大挙して豊臣方が蜂起すれば、家康は大いに驚き、世評が心配になり、諸大名の心境をうかがいつつなかなか動かないだろうと考えます。そのうち、大名たちは自然に豊臣方になびくだろうと。これを聞いた信繁は「浅はかである」一刀両断し、宇治・勢田に積極的に討って出て、一刻も早く家康の首をとるべし、と主張します。治長がその理由について質問すると、信繁は「先んずれば人を制す(史記)」と言い、籠城策は後詰(援軍)が期待できてこその策であり、孤立無援の状況では、どんな堅固な城であっても、やがて落ちる、という主張でした。しかし、これも治長と景範によって否定されます。


真田丸 第43話「軍議」 ~積極策と籠城策~_e0158128_13071626.jpg ほかにも、『列祖成績』では、摂津の北の玄関口である山崎に軍勢を出兵し、三軍で天王寺に陣を布き、自身(信繁)と毛利秀秋に先鋒を任せてほしいと提案。その間に長宗我部盛親後藤又兵衛基次が攻め上がって伏見城を落とし、京のまちを焼き払う。そうすれば、徳川方は進路を塞がれて大坂に入ることができず、やがて戦意を喪失すると主張します。しかし、この作戦に異議を唱えたのは、意外にも又兵衛でした。又兵衛は天下無双の大坂城が簡単に落城することはないとし、大坂城を前に徳川方の諸将が屈する姿を見て、旧豊臣系の大名たちが必ず寝返ってくるとし、籠城策を主張したといいます。ドラマで又兵衛が信繁の案に反対していましたが、その下敷きはこの説を採ったものだったのでしょうか?


 こして見ても、どの逸話も共通しているのは、信繁が一貫して積極策を献策するも、豊臣方の無能な首脳たちによって一蹴され、やむなく籠城策に身を投じるというもの。今回のドラマでは、大野治長の立場や大坂五人衆の心境を少しアレンジしていましたが、概ね逸話に沿った設定でした。しかし、これらの逸話は、いずれも江戸時代中期以降に編纂された軍記物に記されたもので、どこまでが本当の話か判然としません。当時の史料に、信繁が積極策を献策したという史料はみられないんですね。ではなぜ、これほど複数の書物で似たような逸話が描かれたのか・・・。それはたぶん、「信繁の作戦を採れば勝っていたかもしれないのに」という、後世の判官贔屓な思いが生んだエピソードなんでしょう。


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by sakanoueno-kumo | 2016-10-31 18:44 | 真田丸 | Trackback(1) | Comments(0)  

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