真田丸 第47話「反撃」 ~大坂冬の陣講和~
徳川方の砲撃に恐れおののいた淀殿は、一転して和議の申し出に応じる姿勢を見せます。ここに至るまでも、淀殿の叔父にあたる織田有楽斎長益が何度も和議を持ちかけていましたが、淀殿は一貫して強硬姿勢をとっていました。しかし、目の前で侍女が命を落とした出来事は、あまりにもショッキングだったのでしょう。とうとう有楽斎の進言をのみます。その有楽斎が初めから徳川方に通じていたことなど、もちろん知るはずもありませんでした。このとき、豊臣秀頼は頑強に和議に反対していたといいますが、結局、淀殿や有楽斎に押し切られてしまいます。
徳川、豊臣両者による和議の話し合いが行われたのは、慶長19年(1614年)12月18日と19日の2日間。『大坂冬陣記』によると、徳川方の交渉役は徳川家康の信頼厚い側室・阿茶局と、この頃、父の本多正信に代わって家康付きになっていた本多正純で、豊臣方の使者に抜擢されたのは、淀殿の実妹・常高院(お初)でした。常高院は淀殿の妹であるとともに、徳川方の総大将・徳川秀忠(大坂の陣は実質、家康が指揮を採っていましたが、形式上は征夷大将軍である秀忠が総大将でした)の正室・お江の実姉でもあり、中立的な立場といえ(実際には、常高院の子である京極忠高は徳川方に与していたため、中立ではありませんでしたが)、交渉が行われたのも、京極家の陣所でした。戦後の交渉役に武士以外の僧侶や商人が抜擢されることは珍しくなく、女性が事に当たったという例もなくはなかったようですが、大坂冬の陣のような、動員兵力が桁外れに大きな合戦の和睦交渉で、双方ともに女性が使者に指名されたという例は、おそらく日本史上で初めてのことだったのではないでしょうか。
同じく『大坂冬陣記』によると、豊臣方の示した和議の条件は、
一、本丸を残して二の丸、三の丸を破却し、外堀を埋めること。
一、淀殿を人質としない替わりに大野治長、織田有楽斎より人質を出すこと。
とあり、これに対して徳川方の条件は、
一、秀頼の身の安全と本領の安堵。
一、大坂城中諸士についての不問。
というもので、これを約すことで和議は成立しました。一般に、家康が豊臣方を騙して堀を埋め立てたというイメージがありますが、実は、この堀の埋め立ては豊臣方から提示したものなんですね。この城の破却(城割)という条件は、古来より和睦条件において行われてきた方法でした。しかし、大抵の場合は堀の一部を埋めたり、土塁の角を崩すといった儀礼的なものだったといいます。つまり、これ以上戦う意志はありませんという意思表示のためのジェスチャーだったわけです。
ところが、家康はこれを機に徹底的な破壊を実行します。約定では、城の破却と堀の埋め立ては二の丸が豊臣家、三の丸と外堀は徳川家の持ち分と決められていたにも関わらず、徳川方は20万の軍勢を使ってまたたく間にすべての堀を一斉に埋め立て、大坂城の防御力を一気に削いでしまいました。最初から家康の狙いはこれだったんですね。家康にしてみれば、20万の兵を持ってしても大坂城を落とすのは容易ではなく、豊臣家の財力を考えれば、2年や3年の籠城戦は可能だろう。その間、この度の真田丸の戦いのように、味方の兵力の被害も多く予想され、さらには、家康自身の寿命だって尽きるかもしれない。そう考えると、一刻も早く決着をつけたい。そのためには、大坂城の防御力を奪い、城の外に引き出して家康の得意な野戦に持ち込みたかったわけです。いうまでもなく、家康ははじめから和睦する気などさらさらなかったんですね。その家康の目論見にまんまと掛かった豊臣方。秀頼も淀殿も、暗愚だったとはいいませんが、家康の政治力の前では、赤子同然だったといえるでしょう。
かくして裸城となった大坂城内には、真田信繁をはじめ牢人たちがなおも残っていました。彼らの目的は、新たな仕官を求めてきたものや、最期の一花を咲かせるためにきたもの、死に場所を求めてきたものなど様々でしたが、いずれの者にとっても、この突然の和議成立は納得できるものではありませんでした。しかし、そんな牢人たちの存在が、家康が再び戦いに持ち込むための格好の材料になっていくんですね。歴史は家康の描いた筋書きどおりに運んでいきます。この最晩年の家康は、三谷幸喜氏も及ばない天才シナリオライターでした。
by sakanoueno-kumo | 2016-11-28 22:24 | 真田丸 | Trackback(1) | Comments(2)
人間のやることは、そうそう、思い通りに事が運ぶことは少ないわけで。
かもしれませんが、わたしは、関ヶ原のときは、家康もいっぱいいっぱいだったと思いますが、大坂の陣は、ある程度計算どおりだったんじゃないかと思うんですけどね。
真田丸での大敗は想定外だったかもしhれませんが、この和睦から堀の埋め立て、そして夏の陣に至る経緯は、どう考えても出来すぎで、確信犯としか思えない気がします。
この時点で豊臣家を滅ぼすまでの結末を描いていたかどうかはわかりませんが。