真田丸 第48話「引鉄」 ~つかの間の和睦~
今話は、慶長19年(1614年)12月20日に大坂冬の陣の和睦が成立してから、翌年の慶長20年(1615年)春に徳川方によって再び大坂城攻めが開始されるまでが描かれていました。徳川、豊臣の間で交わされた和睦は、わずか4ヶ月で破綻します。実際には、和睦が成立してから堀の埋め立てに2ヶ月近くを要していますから、徳川軍が撤退してからたった2ヶ月での再戦決定となります。このスピードから見ても、徳川家康が最初から和睦するつもりなどなかったことがわかりますね。家康にしてみれば、堀や砦を再建されないうちに、一気に勝負に出たかったのでしょう。
おそらくはその堀が埋め立てられるまでの2ヶ月の間に、真田信繁は甥の真田信吉・信政兄弟に面会したと伝えられます。関ケ原の合戦以来の面会だったでしょうから、たぶん、当時は二人とも幼児で、その成長ぶりに、改めて年月の流れを実感したことでしょうね。このとき信繁は、兄弟に従っていた矢沢頼幸ら旧家臣たちとも対面しています。故あって敵味方に分かれたとはいえ、かつては共に徳川と戦った仲であり、きっと話が尽きなかったことでしょう。
この時期に信繁が一族に宛てて書いた書状が三通残されています。そのひとつは、慶長20年(1615年)1月24日付で実姉の村松(ドラマでは松)に宛てたもので、その内容は、自身が豊臣方に与したことで、真田本家に迷惑がかかっていないかを心配したうえで、和睦が成立して自身も生き残ったが、「明日はどうなるかわかならい」と記しており、信繁がこの和睦を一時的なものだと見ていたことがわかります。一方で、このまま何事もなく「平穏無事に過ごしたい」とも書いており、決して信繁は徳川との決戦を望んでいたわけではなかったこともうかがえます。
そして翌月の2月10日には、信繁の娘・すえの岳父である石合十蔵宛てに書状を送っており、そこでは、自身がすでに死を覚悟している旨を記したうえで、「娘のすえをくれぐれもよろしく」と頼み込んでいます。
さらに、翌月の3月10日には、姉婿の小山田茂誠とその息子・之知に宛てて書状をしたためており、そこには、自身が豊臣秀頼からひとかたならぬ信頼を受けていて有難いものの、そのために、何かと気遣いが多くて大変だと率直な気持ちを述べています。たぶん、秀頼に懇意にされてことで、大坂城内で妬みややっかみなど、ややこしい摩擦があったのでしょうね。また、書状では、「定めなき浮世のことですから、一日先のことはわかりません。どうか、私のことは、浮世にいるものとは思わないでください」と記されています。つまり、「私は死んだものと思ってくれ」ということですね。
ドラマでは、兄の真田信之に宛てた手紙が出てきましたが、実際には信之に宛てた手紙は存在せず、上述した三通の書状を下敷きにしたドラマの創作だと思われます。1月、2月、そして3月と、それぞれの書状を見ても、大坂夏の陣に向けた当時の空気感が伝わってきますね。豊臣方の中核にいた信繁は、そのすべてを肌で感じていたのでしょう。この時期、信繁はどんなことを思いながら過ごしていたのでしょうね。
この間、大坂方には和睦成立以前より牢人が増え、血気盛んな牢人の一部は大坂城外に出て乱暴狼藉を繰り返します。また、ドラマにもあったように、大野治長の弟・治房が、手に大坂城の蔵から配下の牢人たちに扶持を与えるという暴挙に出てしまいます。さらには、大野治長が大坂城内にて襲撃される事件が起き、その首謀者が弟の治房だという風聞が流布します。やはり、所詮は寄せ集めの烏合の衆、大坂城内は完全に統制を欠いていました。
そして3月15日、それら豊臣方の不穏な動きを伝える報が京都所司代の板倉勝重より家康の元に届くと、家康は牢人の追放か豊臣家の移封を大坂方に要求します。しかし、大坂方はそのどちらも飲むことはできず、家康も、それをわかっての無理難題だったといえるでしょう。かくして、豊臣家と徳川家は再び戦うことになります。というより、家康にそう仕向けられたといったほうが正しいでしょう。かつての天下無双の大坂城の姿はどこにもなく、防御力の一切を削がれた大坂城では、万に一つの勝ち目もないことは、火を見るよりも明らかでした。そんななか、信繁たちは何を思い、何を求めて戦いに挑んだのか。あと2話で、どう描かれるのか楽しみです。
by sakanoueno-kumo | 2016-12-05 19:26 | 真田丸 | Trackback(1) | Comments(0)