太平記を歩く。 その4 「大覚寺・持明院仙洞御所跡」 京都市右京区・上京区

『太平記』の舞台である南北朝時代をめぐるには、まず、その動乱時代の発端となった背景を知らなければなりません。

そこで訪れたのは、京都市右京区にある大覚寺


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紅葉が残る晩秋の11月末に訪れました。


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鎌倉時代の仁治3年(1242年)に即位した後嵯峨天皇(第88代天皇)は、わずか4年で若干4歳の皇子・後深草天皇(第89代天皇)に譲位し、自らは上皇となって院政を行います。

ところが、その後に生まれたもう一人の皇子を溺愛した後嵯峨上皇は、後深草天皇を17歳の若さで退位させ、11歳の弟に帝位を継がせます。

これが、亀山天皇(第90代天皇)です。

その後、後嵯峨上皇は次の天皇を亀山天皇の皇子に定めますが、これには兄の後深草上皇も超不満

やがて、後嵯峨上皇が崩御すると、その遺言と称して亀山天皇は自身の皇子・後宇多天皇(第91代天皇)を帝位につけます。

これを不服とした後深草上皇は、鎌倉幕府に調停を願い出ます。

訴えを聞いた幕府は、後深草上皇の不服をもっともなこととし、後宇多天皇の次には後深草上皇の皇子・伏見天皇(第92代天皇)を即位させます。

しかし、今度はこれに対して後宇多天皇方が不服を申し立てます。

その後、両派すったもんだの泥仕合があったのち、幕府が提示した妥協案は、10年ごとに帝位を両派で交代に継承していくという、両統迭立でした。

この案に両者は納得し、以後、後伏見天皇(第93代天皇)、後二条天皇(第94代天皇)、花園天皇(第95代天皇)と、両派交代で帝位につきます。

これが南北朝の前身で、後深草天皇の子孫を持明院統といい、亀山天皇の子孫を大覚寺統といいます。

やがてその大覚寺統が南朝となり、持明院統が北朝となっていきます。

南北朝の動乱の発端は、皇室の兄弟喧嘩からはじまったのです。


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紅葉が綺麗です。


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現在の大覚寺は、広大な敷地面積を誇る国指定史跡となっており、桜や紅葉の名所として多くの観光客で賑わっています。


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一方、こちらは上京区にある持明院仙洞御所跡

かつては長講堂領という広い荘園を有していた持明院統ですが、現在は、光照院門跡の前に石碑だけが建てられており、この日も、ここを訪れていたのはわたしだけでした。

皇室の歴史の上では、南朝(大覚寺統)の方が正当とされているためなのか、寂しい姿でした。


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大覚寺統の血を引く後醍醐天皇(第96代天皇)は、この鎌倉幕府が調停した両統迭立に従おうとせず、それどころか、幕府を滅ぼして古代の天皇を中心とした政治を行おうと考えたんですね。

そして、その1~3で紹介した笠置山での決起に至るわけです。



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by sakanoueno-kumo | 2017-01-25 21:08 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

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