太平記を歩く。 その11 「杉坂峠関所跡」 兵庫県佐用郡佐用町と岡山県美作市の境
兵庫県佐用郡佐用町と岡山県美作市の県境にある杉坂峠を訪れました。
ここは、旧令制国における播磨国と美作国の国境にあった関所跡です。
元弘2年(1332年)、元弘の乱に敗れて隠岐に配流される途中の後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)を、備前国の武士、児島高徳が奪回すべく立ち上がり、前稿で紹介した船坂峠で待ち伏せますが、天皇護送団一行の移動ルートを見誤り、計画は失敗に終わります。
その後、天皇一行を追ってきたのが、ここ杉坂峠だったと伝わります。
しかし、高徳がここに着いたときには、すでに天皇一行は院庄(現在の岡山県津山市)付近まで達していて、完全な作戦ミスの前に軍勢は雲散霧消してしまったといいます。
つまり、ここ杉坂峠は高徳無念の地というわけですね。
峠付近にある説明板です。
記載されている文章は、『太平記』巻四の「備後三郎高徳が事」のくだりと、巻六の「赤松入道円心に大塔宮の令旨を賜はる事」のくだりです。
看板の横の苔生した坂を上ります。
この道が、旧峠越えの道のようですね。
しばらく登ると、「杉坂の関の跡」と書かれた看板と、大きな石碑が建てられた広場にでます。
『太平記』巻六によると、元弘3年(1333年)、大塔宮護良親王の呼びかけに応じて討幕の兵を挙げた赤松則村(円心)は、ここから8kmほど南にある苔縄山の山頂に城を築き、ここ杉坂に関所を構えたとあります。
石碑は、昭和2年(1927年)に建てられたものだそうです。
石碑の裏面です。
石碑の横にある歌碑です。
昭和12年(1937年)に建てられたもののようですが、説明書きがないので、誰の歌なのかわかりません。
現在の杉坂峠は、中国自動車道と並走する県道365号線上にあるのですが、かつては播磨国と美作国を結ぶ交通の要衝だったこの峠も、現在はこの少し南に国道179号線が通っているためか、あまり利用する車はないようです。
この日も、わたしがここにいた20分くらいの時間、1台も車が通りませんでした。
道路の真ん中に立ってこんな写真も撮れちゃいます。
奪回作戦に失敗した高徳の軍勢は、落胆して散り散りになりますが、それでも、高徳は諦めきれず、単身、院庄の天皇行在所に向かいます。
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by sakanoueno-kumo | 2017-02-09 22:00 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(4)
杉坂峠はその昔、参勤交代の行列も通過したかつての要衝。鳥取から北海道へ屯田兵として移住する農民の行列が取ったルートでもあることで有名です。この、移住行に関する考証は鳥取県の高校生が調査発表、文部大臣表彰を受けています。
そうなんですね。
貴重なお話、ありがとうございます。
備前と播磨を結ぶ街道は、ここ杉坂峠と、南に現在の国道2号線でもある船坂峠がありますが(参照:https://signboard.exblog.jp/25310521/)、往時はどちらがメイン街道だったのでしょう?
後醍醐天皇一行が選んだルートもここ杉坂峠だったということは、やっぱ、こっちがメインだったんですかね?
今回、太平記にふれて初めて知った事が、出雲往来(出雲街道)の起点は姫路だった事です。岡山に住んでいると、うっかり「津山起点で津山(院庄)を通って出雲へ抜ける街道」だと勘違いしていました。
(岡山市~津山市が「津山街道」現在の国道53号線、津山市~松江市が「出雲街道」と勘違いをしていました。)
往時はどちらがメイン街道だったのでしょう?については、徒歩で関西方面から出雲へ向かう旅人は、備前(岡山)を経由して北上すると三角形の二辺を通る事になるので、播磨(姫路(今宿?))から直接美作の院庄を目指したと思います。
こちらも所説あると思いますが、後醍醐天皇の隠岐配流が杉坂峠で、隠岐脱出が鎌坂峠(旧釜坂峠←美作市HPより) なども、初代津山藩主 森忠政の美作入国が杉坂、釜坂いずれを通って入国したかと思い合わせて興味深く読ませてもらいました。
貴重なコメントありがとうございます。
RES遅くなって申し訳ありません。
>備前(岡山)を経由して北上すると三角形の二辺を通る事になる
たしかに、言われてみれば!
でも、じゃあなぜ児島高徳は船坂峠を通ると思ったのでしょうね?
山陽道の方がメイン街道だったから、そう思ったのかなぁと。
まあ、太平記が伝えるこの話が事実かどうかわかりませんけどね。