太平記を歩く。 その13 「下赤坂城跡」 大阪府南河内郡千早赤阪村
大阪府は南河内郡の千早赤阪村にある、下赤坂城跡にやってきました。
元弘元年(1331年)、倒幕計画が発覚した後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が逃亡先の笠置山で挙兵した際、楠木正成がこれに呼応してこの地で挙兵したと伝えられます。
別名「赤阪城」とも呼ばれる下赤坂城は(“阪”と“坂”の違いに注意)、城跡としての遺構は残っていませんが、現在、想定される千早赤坂村立中学校の丘の上に、石柱が建てられています。
石柱には、「昭和十四年三月建設」と刻まれています。
『太平記』によると、正成は笠置山が危なくなったときにはここに天皇を迎えようと考え、急いでこの地に城を築いたと伝えられます。
9月27日に笠置山を追われた後醍醐天皇は、この地に落ちる途中に捕らえられてしまいますが、大塔宮護良親王はこの地に落ち延びることができました。
このため、下赤坂城は10月中旬から鎌倉幕府軍の大攻撃の的となりますが、正成は熱湯や二重塀の活用、大木の投下等の奇策を用いて幕府軍を翻弄したと伝えられます。
しかし、所詮はにわか造りの城であったための、しだいに大軍の攻撃に耐え切れなくなり、10月21日に落城。
正成は城に火を放って金剛山に逃げました。
このとき、下赤坂城の大穴に見分けのつかない焼死体が20体以上見つかり、これを楠木正成とその一族と思い込んだ幕府軍は、11月に鎌倉に帰陣したといいます。
翌年12月、再挙兵した正成は夜襲をかけてこの城を奪回しますが、間もなく落城。
しかし、その後、千早城の戦いの最中に、鎌倉幕府は滅亡します。
下赤坂城跡は石碑が建てられているのみで、城跡としての魅力はさほどありませんが、わたしはかねてから一度ここを訪れてみたいと思っていました。
というのが、これ。
石碑の建つ丘から見下ろす、広大な棚田です。
どうです、実に美しい光景でしょ。
この日は梅雨真っ只中の7月3日。
でも、どうしてもこの景色が見たくて、田植えが終わって稲穂が育ち始めるこの季節で、天気の良い日をずっと狙っていました。
やっと、来ることが出来ました。
この美しい景色を見ると、ここで幾度と無く戦が行われたなどとは、想像もつかないですね。
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by sakanoueno-kumo | 2017-02-15 17:50 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)