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太平記を歩く。 その14 「上赤坂城跡」 大阪府南河内郡千早赤阪村

隠岐に流された後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)でしたが、それでも意気消沈することなく、隠岐から全国の反北条派の武士たちに檄を飛ばし、鎌倉幕府倒幕を呼びかけます。

そんななか、元弘2年(1332年)11月、後醍醐天皇の皇子・大塔宮護良親王吉野挙兵

それに呼応するかたちで12月、楠木正成も挙兵します。


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再挙兵した楠木正成下赤坂城を奪回しますが、再び下赤坂城が落城すると、新たに築いた上赤坂城が楠木氏の本城となります。


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上赤坂城は足谷川城ノ谷で囲まれた自然の要害で、標高約350m、比高150mの山頂に築かれた山城です。

上の案内板にあるように、上赤坂城を中心として猫路山城、国見山城、枡形城などの出城が築かれており、この一帯を赤坂城塞群と呼びます。

この城塞群は、尾根伝いに南方の金剛山まで続きます。


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登山口に設置されていた上赤坂城の縄張り図です。


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登山口です。


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登山口を登るとすぐに、「一の木戸跡」があります。

「木戸」とは城門という意味で、「一ノ木戸」は、いわば大手門ですね。


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登山道はこんな感じで、それほど険しい道ではありません。


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一ノ木戸跡から約50m登ると、「二の木戸跡」があります。


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さらに200mほど登ったところにある「三の木戸跡」です。


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「そろばん橋跡」です。

この両側に2重の堀切跡があったそうですが、草深くてよくわかりません。

やっぱ、城跡の遺構を見るには、雑草の枯れたに来ないとだめですね。


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二ノ丸本丸の分岐点です。

この辺りを「茶碗原」と呼びます。


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「二ノ丸跡」です。

結構な面積の削平地でしたが、人の胸ぐらいの高さの雑草が覆い茂っており、季節がらマムシが怖くて中には踏み込めませんでした。

やっぱ、城跡は冬に来るべきです。


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そして「四の木戸跡」を経て本丸に向かいます。


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「本丸跡」です。


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「史蹟 楠木城趾」と刻まれた石柱は、「昭和十四年三月建設」とありますが、その土台部分は、「昭和五十八年建立」と刻まれています。

40年以上、どこか他の場所にあったのでしょうか?


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「上赤坂城趾」と刻まれた石柱の方は、「昭和十一年四月二十五日」に建てられたもののようです。


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本丸跡からは、大阪平野が一望できます。


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上の写真の左に見える塔は、某教団の平和の塔です。

下の写真は、千早赤阪村郷土資料館にある上赤坂城の縄張り模型


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元弘3年(1333年)2月22日、大手筋から押し寄せた幕府軍は四の木戸まで迫り、激しい攻防戦が展開されますが、やがて幕府軍によって水路が断たれると、楠木軍の大将・平野将監(重吉)ら約300の城兵は堪えきれず、10日間の攻防戦の末、降伏

ときを同じくして、大塔宮護良親王の吉野山も陥落し、鎌倉北条幕府の大軍は楠木正成の千早城に殺到することになります。


次回は、その千早城跡をめぐります。




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by sakanoueno-kumo | 2017-02-16 18:20 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

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