太平記を歩く。 その15 「千早城跡」 大阪府南河内郡千早赤阪村
上赤坂城跡から直線距離にして5kmほど南東にある、千早城跡を訪れました。
数ある楠木正成の築いた城のなかで、たぶん、ここがいちばん有名なんじゃないでしょうか?
『太平記』によると、わずか1000人足らずで幕府軍100万と対峙した城として伝えられます。
その兵数の真偽は別にしても、大軍に攻められながらも落城しなかった城として、後世に伝説的な存在となります。
現在、日本100名城のひとつにも数えられています。
現在、城跡は千早神社となっており、比高150mの急斜面に敷かれた約600段の石段を登ります。
ここを訪れたのは初夏の7月3日。
600段の階段はめちゃめちゃハードでした。
「四の丸跡」です。
振り返ると、和泉国が見渡せます。
ところどころで、兵の人形が迎えてくれます。
これは、楠木正成が用いた奇策のひとつ、藁人形作戦をイメージしたものだと思いますが、残念ながら藁人形ではなくブリキ人形でした。
四の丸奥の鳥居をくぐると、長い参道が続きます。
その奥が「三の丸跡」。
そして石段を上がったところが「二の丸跡」です。
二の丸跡には「千早城跡」と刻まれた石柱があります。
「昭和十四年三月建設」とあります。
下赤坂城、上赤坂城に建てられていた石柱と同じときに造られたもののようですね。
そして、石段を上ると「本丸跡」です。
現在、千早神社の本殿があります。
元弘3年(1333年)2月27日、上赤坂城を落とした幕府軍は、楠正成の籠るここ千早城を包囲しました。
『太平記』によると、
「城の四方ニ三里が間は見物相撲の場の如く、打井んで尺寸の地をも余さず充満せり」
とあり、数十倍の大軍が千早城に押し寄せて来た様子がうかがえます。
幕府軍は上赤坂城の戦いと同じく城方の水源を断とうとしますが、千早城には長期戦を睨んで水も食料も十分に蓄えられていました。
そして正成は、城に攻めあがる幕府軍に対して、石礫や大木の丸太、糞尿などを浴びせかけて応戦し、敵兵を退けます。
また、長引く籠城戦で士気に緩みが見えてくると、武装させた藁人形を夜のうちに城外の麓に並べて敵兵をおびき寄せ、大量の大石を投げ落として撃退したといいます。
この攻撃で、幕府兵300人が即死、500人が負傷しました。
また、幕府軍がむかい近くの山から100尺(約300m)の橋を架けて城に攻め入ろうとした際には、かねてより用意していた水鉄砲の中に油を入れ橋に注ぎ、松明を投げ入れて敵兵もろとも橋を焼き落としました。
谷底には敵兵の屍が積み重なり、『太平記』では、数千名が猛火に落ち重なって火地獄になったと伝えています。
これらの伝承のどこまでが史実でどこからが虚構なのかはわかりませんが、実際に寡兵で大軍から城を守り切ったという話は事実で、まさに難攻不落の城として後世に名を遺すことになりました。
本殿の裏山もおそらく城跡だと思われますが、山全体がご神体ということで、立入禁止となっていました。
こちらは、千早赤阪村郷土資料館にある千早城の縄張り模型です。
千早城の戦いは翌月の閏2月29日まで1か月以上続きます。
幕府軍が千早城に釘付けになっている間に、隠岐国の配所を脱出した後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の討幕の綸旨に呼応した武将が各地で挙兵し、千早城を攻めていた武将が次々に帰国。
関東では手薄となった鎌倉を新田義貞が攻め、鎌倉幕府は滅亡することとなります。
千早城の戦いが終了した12日後のことでした。
城跡近くには、楠木正成の三男・楠木正儀の墓(異説あり)があったのですが、時系列的にずいぶん先になるので、また稿を改めます。
by sakanoueno-kumo | 2017-02-17 18:19 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)
バスもあっるようですが、めちゃめちゃ辺鄙なところなので、車がおすすめです。
千早城はわたしもかねてから訪れてみたかった場所でしたが、来てみると、それほど目を見張るものはありませんでした。
日本100名城のひとつに数えられていますが、城跡の地形は感じられるものの、遺構はほとんど残っておらず、山の中腹にある神社、といった感じでした。
歴史に大きな伝承を残した・・・という意味での100名城なんでしょうね。