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太平記を歩く。 その45 「北畠具行の墓」 滋賀県米原市

清瀧寺徳源院から少し南の丸山という標高285mの山頂に、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の重臣・北畠具行の墓があります。


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標高285mといっても、近くまで車でいけますので、徒歩での登山は5分ほど。

墓所までの参道も整備されていて、迷うこともありません。


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しばらく登ると「元弘忠臣北畠具行卿」と刻まれた石碑があります。

この横の道を登ると、墓所です。


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この日は、雨の降るなか傘をさしての参拝です。


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こちらは、墓所広場入口にある石碑です。


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北畠具行は後醍醐天皇の側近として活動し、従二位権中納言まで昇進した、公家の中でも国政を担う最高幹部の「公卿」という高い身分の貴族でした。

いずれ、このシリーズでも出てきますが、北畠宗家第4代・北畠親房の従兄弟にあたります。

元徳2年(1330年)に宗家の北畠親房は後醍醐天皇の皇子・世良親王急死の責任を取って出家し、宗家はまだ幼少の北畠顕家が継ぐこととなるのですが、具行はその後見人となります。


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元弘元年(1331年)の「元弘の変」で具行は中心的存在としてはたらきますが、計画に失敗し、幕府軍に捕えられてしまいます。

そして具行は鎌倉に護送されることになるのですが、この護送を命じられたのが、この時点ではまだ幕府方だった佐々木道誉でした。

護送の任務に就いた道誉は、具行の人となりと才能を惜しみ、幕府に助命嘆願を行ったといいます。

その間、京極氏の領地である清瀧寺に具行を約1カ月間留め置いたともいわれていますが、結局、道誉の願いは聞き入れられず、具行はこの地で斬首されました。

具行は処刑前、道誉に対して感謝の意を述べたとも伝わります。


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砂岩製で、総高は204cmあるそうです。


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「貞和三(1347年)丁亥十一月二十六日」の銘文があり、死後16年後に介錯を務めた田児六郎左右衛門尉により建てられたと伝えられます。


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下山したとたん、急に雲が切れて晴れ間が見え始めました。

遠くに見える高い山は、伊吹山です。


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ちなみに、前稿で紹介した清瀧寺徳源院境内の「京極家墓所」にも、具行の遥拝墓とされる宝篋印塔があります。

上の写真がそれ。

婆娑羅大名と呼ばれた道誉と上流貴族の具行が、どのように心を通わせたのか、興味深いですね。




「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。

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by sakanoueno-kumo | 2017-04-27 00:45 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

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