おんな城主 直虎 第28話「死の帳面」 ~おんな大名 寿桂尼~
寿桂尼、最後の政治でしたね。武田信玄の息子・武田義信が幽閉先の東光寺で自害(病死とも)したのが永禄10年(1567年)10月19日。その翌月には義信の正室・嶺松院(実名は不明)がその娘とともに今川に送還されているので、ドラマはこの1ヵ月前後の政治を描いています。寿桂尼が没するのは翌年の3月14日。死の4~5ヵ月前ということになりますね。そんな寿命が尽きる寸前のばあさんが、甲斐へ相模へと奔走しえたとはとても思えませんが、「死しても今川の守護たらん」という有名な遺言を残すほど今川の行く末を案じていた寿桂尼ですから、きっと、最後まで孫の今川氏真にまつりごとを任せられず、あんな感じで口を出していたんじゃないでしょうか。
信玄「お具合がよろしゅうないと聞いておりましたが、ご息災で何よりでございます。」
寿桂尼「神仏も我には会とうないようにございます。」
信玄「それは神仏も正直なことを。」
寿桂尼「老婆心ながら、そなたほどのお方が尾張の若造に足をすくわれませぬように。」
信玄「ご忠告、痛み入ります」
圧巻の舌戦でしたね。老獪VS老獪。古雌狐VS古禿狸。実に見ごたえがありました。でも、明らかに寿桂尼がイニシアティブを取っていましたね。
氏真「おばばさま、首尾はいかがでしたか?」
寿桂尼「鈴は武田にとっては決め手となる人質です。われが行ったくらいで手放すわけが・・・」
氏真「では、何のために行かれたのですか?」
寿桂尼「シテにお出ましいただきやすくするためです。」
氏真「シテに?」
寿桂尼「春どの、お父上に仲立ちをお頼みしたいので、一筆したためていただけるかの?」
氏真「北条に?・・・では初めからそうすればよかったのではございませぬか?」
寿桂尼は「直に関わる者同士が話し合うておらぬ場にシャシャリ出るのは、北条も望むまい。武田は、北条にはまだ大切な味方・・・」
寿桂尼のいう「シテ」とは、能における「主人公」という意味だそうです。つまり、主人公の出る幕を作りに行ったのだと。仲裁役が仲裁し易いようにお膳立てをしに行ったわけですね。さすがは寿桂尼、したたかな外交手腕です。
今川氏親の正室として駿河国に嫁ぎ、夫の死後、わが子の氏輝、義元、そして孫の氏真と、今川家4代に渡って政務を補佐し、「駿河の尼御台」「女戦国大名」などと称された寿桂尼。実際、桶狭間の戦いで義元が死んだあとも、今川氏が何とかその大名としての面目を保ってこられたのは、寿桂尼のちからだったともいわれ、武田信玄などは、「寿桂尼が生きているうちは駿河を攻められない」と言っていたとか。事実、寿桂尼が死ぬやいなや、信玄は駿河侵攻を開始しますしね。一説には、駿河攻めを開始した信玄は、まず手始めに寿桂尼の墓を破壊してから今川に攻め入ったなんて話もあります。本当に墓から出てきそうな気がしたのかもしれません。まさに、おんな大名・寿桂尼です。
さて、ドラマに戻って井伊直虎ですが、井伊直親への所業について寿桂尼から問われた直虎は、こう答えます。
直虎「家を守るということは、きれい事だけでは達せられませぬ。狂うてでもおらねば、己の手を汚すことが愉快な者などおりますまい。汚さざるをえなかった者の闇はどれほどのものかと・・・そう思います。」
涙する寿桂尼。そなたがわが娘であれば・・・と。そして、そのまま寿桂尼はこの世を去る・・・と思いきや、デスノートに「×井伊直虎」の文字が!!!
曰く、「われに似た女子は、衰えた主家に義理立てなど決してせぬ。」・・・と。
いや~、見事な結末でしたね。さすが、寿桂尼は最後まで寿桂尼でした。今話は、これまででいちばん見応えがあったかも・・・。
ちなみに上記の直虎の台詞、のちの小野但馬守政次に対する所業の伏線かもしれません。
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by sakanoueno-kumo | 2017-07-17 20:09 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)