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おんな城主 直虎 第31話「虎松の首」 ~小野但馬守の井伊谷城乗っ取り~

 永禄11年(1568年)11月19日、井伊直虎は2年間はねつけていた徳政令をとうとう布告しました。これは、単に徳政令の発動ということだけではなく、直虎の政治的敗北を意味していました。駿府の今川氏真はこれを機に直虎を地頭職から罷免し、井伊谷の統治権を奪います。そして、その代わりに城代となったのが、小野但馬守政次でした。このため、一般にこの事実は、政次の井伊谷城乗っ取りと解釈されています。


 ところが、ドラマでは全く違う設定で、政次は誰よりも井伊家のことを考え、直虎を守るために自らを犠牲にする人物として描かれています。自身が裏切り者を演じることによって今川から井伊谷を任され、井伊家のとなる腹積もりなのでしょう。既に今川から疑念を持たれている政次でしたが、百姓の座り込み騒ぎをとっさに利用して関口氏経に取り入り、信頼を得ることに成功。この政次の機転をアイコンタクトで理解して乗っかる直虎。ふたりのコンビネーションは、もはや主と家老の域を超えています。


 『井伊家伝記』によると、今川氏真は政次を井伊谷城の城代に据える条件として、来る武田氏との戦に備えて軍勢を出すこと、そのうえ、井伊虎松(のちの井伊直政殺害するよう命じたといいます。これを事前に察知してか、直虎は虎松を龍潭寺松岳院に逃し、南渓瑞聞和尚の協力を得て三河国の鳳来寺に逃しました。鳳来寺は徳川氏の領内なので、今川の手が及ぶことはありません。そして直虎は実母の祐椿尼とともに松岳院に残り、徳川軍の救援を待つことになります。


 この徳政令をめぐる一連の出来事は、直虎が関口氏経と連署で蜂前神社に奉じた文書と、今川家から瀬戸方久に送られた赦免状以外、実はほとんど何もわかっていません。政次の専横を伝える『井伊家伝記』は後世に記された家伝で、多分に井伊家に都合よく書かれた創作も多く、一次史料としては扱われていません。つまり、2年間はねつけていた徳政令を発布すると同時に井伊家は井伊谷を追われ、政次が代官として井伊谷に入ったということは事実としても、それが乗っ取りだったという確証はどこにもないんですね。だから、今回のドラマのような解釈があってもいいんじゃないかと。ただ、となれば、この先の政次処刑まで物語をどう持っていくかが見ものですが。


 「すべてを含めて、だまされておられるということはございませぬか?」


 この中野直之の台詞が鍵となってくるのでしょうか?


 それにしても、虎松の首あらためのシーンは引き込まれましたね。「虎松君は疱瘡を患っておいででしたので」という台詞で首が虎松のものではないということを伝え、それを聞いた直虎が、涙ながらに首を抱えてを上げる。あの涙は関口の目を欺くための演技ではなく、身代わりとなった名も無き少年に対する哀悼の悲嘆だったのでしょう。そして、井伊家のために政次にここまでさせてしまったという心痛もあったかもしれません。さすがの政次も、この局面を無血では収められませんでした。身代わりとなって死んだ子は助からない病に罹って親に売られた子で、その子にとっても、あとは死ぬだけなのに銭を親に与えられてよかったんだ・・・という龍雲丸の言葉は、本当の話なのか、それとも直虎を慰めるための作り話だったのか・・・。


 「案ずるな。地獄へは俺がゆく」


 おとわを思う政次の心が、あまりにも悲痛です。



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by sakanoueno-kumo | 2017-08-07 15:04 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

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