太平記を歩く。 その102 「観心寺」 大阪府河内長野市

大阪府河内長野市にある観心寺を訪れました。

ここは、観心寺は楠木正成一族の菩提寺で、正成の少年時代の学問所だったという伝承もあります。


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山門横では、正成の騎馬像が迎えてくれます。

神戸の湊川公園の騎馬像よりは小振りなものです。


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逆光の撮影なのでわかりにくいですが、精悍な顔をしています。


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観心寺の寺伝によると、大宝元年(702年) に役小角によって開かれ、当初は雲心寺と称したとされますが、天長4年(827年)に空海がこの地を訪れ、「観心寺」の寺号を与え、その一番弟子の実恵が実質的な開祖となった寺院です。


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国宝の金堂です。

14世紀に入ると、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)は当寺を厚く信任し、建武の新政成立後(1334年ごろ)、楠木正成を奉行として金堂外陣造営のを出し、 現在の金堂ができたそうです。


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金堂は「折衷様建築」の代表作といわれているそうです。

寺院建築には、鎌倉以前から寺院建築として用いられた地震に強い「和様」、鎌倉時代初期にに東大寺再建にあたって採用された大形建築に対応できる「大仏様」、同じく鎌倉時代初期に禅宗と共に日本に伝わった「禅宗様」があるそうですが、「折衷様」は、その良いとこ取りをした建築様式のことをいうそうです。

かつては折衷様のことを「観心寺様」とも呼んだほど、この金堂が折衷様を代表する建物なんだそうです。


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金堂は大阪府下最古の国宝建築物といわれているそうで、これまで、17世紀はじめの豊臣秀頼の時代、江戸時代中期、明治の初め、昭和の初めに修理が行われ、昭和59年(1984年)に昭和大修理が行われ、現在に至っています。


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こちらは、重要文化祭の建掛塔です。

正成は報恩のため三重塔の建立に着工したと伝わりますが、延元元年/建武3年(1336年)5月25日の「湊川の戦い」で正成が戦死したため工事はストップし、“建掛(たてかけ)”の塔として今に残ってと伝わります。


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のちに屋根の小屋組みと茅葺の屋根が架けられたそうです。

たしかに、これ単体のお堂と見るには、やけに屋根が大きくてアンバランスな気がしないでもないです。

でも、正成が死んでも、その子供たちが遺志を継いで完成させることはできたはずなんですけどね。

境内には、楠木正成の首塚と伝えられる場所がありるのですが、続きは次稿にて。



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by sakanoueno-kumo | 2017-08-10 21:39 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

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