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おんな城主 直虎 第32話「復活の火」 ~井伊谷三人衆と小野但馬守政次~

 永禄11年(1568年)12月6日、甲斐国の武田信玄は甲府を出発して駿河への侵攻を開始します。対する今川氏真は、12月12日、武田軍を迎撃するため重臣の庵原忠胤に1万5千の軍勢を与えて、薩埵峠へ向かわせました。しかし、ここで今川は有力な国衆21人の裏切りにあい、12月13日、今川軍は潰走し、駿府は武田軍に占領されます。今川氏滅亡劇が始まりました。


 一方、三河国の徳川家康も、信玄に呼応するかたちで動き始めます。『三河物語』によると、信玄と家康は事前に示し合わせ、大井川をはさんで駿河国武田領遠江国徳川領にする密約を交わしていたといわれます。三河国から遠江国に侵攻するには、その国境に位置する井伊谷は重要な拠点となります。その徳川に取り入って井伊家の再興を図るというのが、ドラマでの井伊直虎小野但馬守政次の狙いでした。


 『改正三河後風土記』によると、遠江を攻略すべく岡崎城を発った家康は、まず、井伊谷城を攻めようと三河野田城主の菅沼定盈とその家臣・今泉延伝案内役を命じます。その定盈は家康に対し、「井伊谷城は要害の地にある城ゆえ攻めるに難しく、力攻めにすれば空しく月日を費やし、兵を多く失うことになります。そこで、わたしの一族である菅沼忠久や近藤康用、鈴木重時という井伊谷の三人の豪傑に恩を施して味方につけ、戦わずして城を手に入れましょう。」と進言したといい、これを受けた家康は「その申すところ、もっともである。」として、井伊谷近くまで馬を進め、三人に知行の宛行状を渡したと伝えます。このシーンはドラマにもありましたね。


 一方で、『井伊家伝記』によると、家康は菅沼忠久、近藤康用、鈴木重時の三人に井伊谷城を攻めさせ、小野但馬守政次を敗走させたと伝えます。三人の軍勢はよほど強かったようで、政次は満足に戦うことなく逃亡したといいます。ただ、井伊谷城を攻撃したという記述は『井伊家伝記』のみに見られるもので、史実かどうかは定かではありません。何度か紹介してきたとおり、『井伊家伝記』は江戸時代中期に書かれた家伝で、その信憑性については疑問符が打たれる史料なので(・・・ただ、それを言ってしまうと、井伊直虎=次郎法師というのも、この『井伊家伝記』に基づく説なんですが)。


 『井伊家伝記』の記述を信用すれば、井伊家を横領して我が物にしようとした奸臣・小野但馬守政次が悪者で、その政次を捉えて処刑に追いやった近藤康用こそが、井伊家を救った恩人ということになります。ところが、ドラマではまったく逆の設定。政次こそが井伊家のために命を張った忠臣で、近藤はこれまでの遺恨(材木泥棒の話)などから井伊家を快く思っておらず、この機に乗じて井伊谷を乗っ取ろうとする悪役に描かれていました。その真偽はどうなのか・・・。先述したとおり、『井伊家伝記』は徳川を批判することが許されない江戸時代中期に書かれたもので、歴史家のあいだでは、小野を悪役に仕立てることで、徳川、井伊谷三人衆、井伊の大義名分を確保した可能性が指摘されている史料です。そう考えれば、ドラマのような解釈はまったく否定できませんよね。実際、『井伊家伝記』の記述にみる井伊谷城横領後の政次の行動は、あまりにもお粗末すぎて不自然です。案外、ドラマのような物語があったのかもしれません。


「にわかには信じられぬであろうが、井伊と小野はふたつでひとつであった。井伊を抑えるために小野があり、小野を犬にするため井伊がなくてはならなかった。ゆえに憎み合わねばならなかった。そして生き延びるほかなかったのだ。」


 それが、大国・今川氏の傘下で小国が生きていくための手段だった・・・と。かつて「お前は必ずわしと同じ道をたどるぞ。」と語った政次の亡き父・小野和泉守政直の言葉は、こういうことだったんですね。しかし、それも今日で終わりだ・・・と。ここから、新しい井伊家が始まるんだ・・・と。


 しかし、その新しい井伊家に小野は参加できません。政次という人物の見方は、いくらでも角度を変えて解釈できるでしょうが、歴史上起こった出来事までは変えることはできません。次回、その悲痛な結末が描かれます。



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by sakanoueno-kumo | 2017-08-14 16:13 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

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