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太平記を歩く。 その107 「千種忠顕戦死之地」 京都市左京区

前稿で紹介した雲母坂を登ること約1時間半、標高660mのあたりに、「千種忠顕戦死之地」と刻まれた大きな石碑があります。

ここは、比叡山に逃れた後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)を守っていた千種忠顕が、攻め寄せる足利直義軍と激戦の上、討死した場所と伝えられます。


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千種忠顕は早くから後醍醐天皇の近臣として仕え、元弘2年(1332年)の元弘の乱で天皇が隠岐島配流となると、これに付き従います。


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そしてその翌年、天皇が隠岐島を脱出して伯耆国船上山にて再び挙兵すると、伯耆国の名和長年とともにこれを助けます。

そして、楠木正成赤松則村(円心)らが京を奪還すべく各地で奮戦している報を受けると、天皇は忠顕を山陽・山陰道の総司令官に任命し、援軍として京に向かわせます。

千種軍は進軍途中で増え続け、『太平記』によると、その数20万7千騎にも及んだとか。

京に上った千種軍は赤松円心の六波羅探題攻めに加わり、やがて足利高氏(尊氏)寝返りもあって天皇方が勝利し、鎌倉幕府は滅亡します。


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建武の新政では結城親光、楠木正成、名和長年らと共に「三木一草」と称され、莫大な恩賞を受けますが、贅沢三昧の暮らしぶりが新政の批判の対象となり、出家に追い込まれます。

やがて、足利尊氏が新政に反旗を翻すと、忠顕は新田義貞北畠顕家らと共に天皇方として尊氏を追い、九州へ駆逐しました。

しかし、再び力を得た尊氏が「湊川の戦い」にて楠木正成を打ち破ると、忠顕は新田義貞らと共に天皇を比叡山に逃し、比叡山西側の登山道・雲母坂、つまりこの地にて足利軍と激突。

そして討死しました。


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『太平記』巻17「山攻事付日吉神託事」によると、足利軍は三石岳、松尾坂、水飲より三手に分れて攻撃し、迎え討つ千種忠顕、坊門正忠300余騎はよく守るも、松尾坂より進軍してきた足利軍に背後を突かれたため、一人残らず討死、全滅したとされています。


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石碑は千種家の子孫によって大正10年(1921年)5月に建てられたもので、高さは3m、巾65.5cm、基壇は三段の切石で積まれ、墓地の郭は直径約9mあります。

石碑にはめ込まれている銅板は、明治・大正の歴史学者・三浦周行によって撰文されたものです。


「卿ハ六条有忠ノ子ニシテ、夙ニ後醍醐天皇ニ奉仕ス。資性快活ニシテ武技ヲ好ミ、頗ル御信任ヲ蒙レリ。元弘元年、討幕ノ謀露レ、天皇笠置ニ潜幸シ給フニ当リ、卿之ニ扈従シ、城陥リテ天皇六波羅ニ移サレ給フニ及ビ、卿亦敵ニ捉ヘラレンモ、特ニ左右ニ近侍スルヲ許サル後、天皇ニ供奉シテ隠岐ニ赴キ、密ニ恢復ヲ図リ、元弘三年、天皇ヲ伯耆ニ遷シ奉リ綸旨ヲ四方ニ伝ヘテ義兵ヲ起サシメ、又自ラ兵ニ将トシテ六波羅ヲ攻メテ、之ヲ陥レ、神鏡ヲ宮中ニ奉安セリ。尋デ北条氏亡ビ、車駕京都ニ還幸アラセラルルヤ、卿之ガ先駆タリ。天皇厚ク其首勲ヲ賞シ給ヒ、従三位ニ叙シ、参議ニ任ゼラル。中興ノ政治参著スル所亦多シ。既ニシテ足利尊氏、大挙シテ京都ヲ攻メ、天皇延暦寺ニ幸シ給フ。尊氏弟直義ヲシテ兵ヲ進メテ、行在ヲ侵サシム。卿之ヲ西坂本ニ拒ギシモ、利アラズ、終ニ此地ニ戦死ス。時ニ延元元年六月七日ナリ。大正八年、其功ヲ追賞シテ、従二位ヲ贈ラル。

大正十年五月

文学博士 三浦周行撰並書」


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ここを訪れたのは4月22日で、外界のは散ってしまっていたのですが、標高660mのこの地では、まだ桜が残っていました。


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また、ここから北へ200mほどの登山道の端に「千種塚旧址」と刻まれた小さな石碑がありました。

いつ建てられたものかはわかりませんが、かなり古いもののようでした。


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「千種忠顕戦死之地」から少し南西に下ったところにある休憩所からの眺望です。

京都市内が一望できます。

写真右下の小高い山が宝ヶ池、その向こうに見える山が金閣寺などのある北山地区で、さらに遠くに見えるのが、嵐山です。

写真中央左に見える小さな森が下鴨神社で、その左奥に見える大きな森が京都御所、さらにその向こうには、二条城が見えます。

比叡山と都を結ぶこの雲母坂は、1000年以上、すっと京の町を見下ろしています。




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by sakanoueno-kumo | 2017-08-18 20:35 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

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