太平記を歩く。 その108 「名和長年殉節之地」 京都市上京区

西陣と呼ばれる京都市上京区の一角に、名和長年終焉の地と伝わる場所があります。

現在、名和児童公園としてブランコなどの遊具がある小さな公園となっていますが、その一角に、大きな石碑が残されています。


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公園の入口には、石の鳥居と「名和長年公遺蹟」と刻まれた大きな石碑、そして「此附近名和長年戦死之地」と刻まれた小さな石碑があります。


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石碑の裏には「昭和十四年四月建 名和會」とあります。


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公園内には、「昭兮大宮忠節」「赫兮船上義勇」と刻まれた2つの石柱があります。


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そして、これが「贈正三位名和君遺蹟碑」の石碑、昭和10年(1935年)に建てられたものです。


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名和長年は伯耆国海運業を行う豪族で、元弘3年/正慶2年(1333年)閏2月、配流先の隠岐の島を脱出した後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)を助け、上洛後は「建武の新政」において天皇近侍の武士となり、記録所武者所恩賞方雑訴決断所などの役人を務めました。

また、海運業を営んでいた経歴を買われ、京都の左京の市司である東市正にも任じられています。

長年については「その48」から「その57」で詳しく紹介したかと思います。


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天皇の忠臣であった長年は、伯耆守の(キ)をとって、同じく後醍醐天皇に重用された楠木正成(キ)結城親光(キ)千種忠顕(クサ)と合わせて「三木一草」と称されました。

しかし、足利尊氏が政権から離脱して後醍醐天皇に反旗を翻すと、楠木正成、新田義貞らと共に尊氏と戦い、延元元年/建武3年6月30日の内野(平安京大内裏跡地)の戦いで敗れ戦死しました。


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討死にした場所については、『太平記』は京都大宮『梅松論』には三条猪熊とされています。

この公園は、『梅松論』に近い場所といえます。

名和長年の戦死を最後に、「三木一草」は全員この世を去りました。


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後醍醐天皇に与えられたという「帆掛け舟の家紋」です。


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こちらの古い石碑には、ちょっと傷んでいますが、「贈從一位名和長年公殉節之所」と刻まれています。


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裏には「明治十九年一月」と刻まれています。


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この2つの石碑で注目すべきは、名和長年は死後500年以上も経った明治19年(1886年)に「正三位」を追贈され、その約半世紀後の昭和10年(1935年)には「従一位」という破格の官位を加増されていることです。

この1年前の昭和9年(1934年)は「建武中興六百年」にあたる年で、日本各地に楠木正成をはじめとする南朝忠臣の石碑が建てられるなどの事業が進められていました。

ちょうどこの頃、明治44年(1911年)に起きた南朝、北朝どちらが正統かという議論「南北朝正閏問題」における「南朝正統論」が国策として進められていた時期で、教科書では「南北朝時代」「吉野朝時代」と改められ、南朝の正統性を国民に浸透させようとしていた真っ只中でした。

それがやがて「七生報国」などのスローガンを生んで政治利用され、日中戦争、太平洋戦争の戦火になだれ込んでいくことになるんですね。

いまでは世間一般にあまり名を知られなくなった名和長年。

この2つの石碑は、単に長年がこの地で死んだということだけじゃなく、この明治の石碑から昭和の石碑に至るまでの時代背景に、どういう政治的意図があったかを知ってから見るべき碑かもしれません。




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by sakanoueno-kumo | 2017-08-19 23:12 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

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