太平記を歩く。 その111 「尊良親王御墓所見込地」 福井県敦賀市

前稿で紹介した金ヶ崎城跡の一角に、尊良親王自害したと場所が伝えられています。


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その場所は、本丸跡に登る途中の脇道に設置された階段を上った、小高い丘の上にあります。


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尊良親王は後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の皇子で、幼いころより聡明容姿も端麗だったといい、次期皇太子として期待されていたそうですが、鎌倉幕府の介入によって後二条上皇(第94代天皇)の長子・邦良親王が皇太子となります。

その後、元弘の乱では父帝とともに笠置山に赴くも、敗れて父と共に幕府軍に捕らえられ、土佐国に流されました。

そのときの逸話は、「その9」で紹介しています。


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その後、京に戻って新田義貞と共に足利軍と戦いますが、父帝の降伏に伴い義貞と共に越前国に逃れ、ここ金ヶ崎城にて半年間の攻防戦の末、義貞の息子・新田義顕や他の将兵らとともに、延元2年/建武4年(1337年)3月6日、この地で自害したと伝わります。


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石碑には「見込地」と刻まれています。

たぶん、このあたりだったんじゃないか、ということでしょうね。


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石碑の裏には、「明治九年十月」とあります。

これまで見てきた『太平記』関連の石碑のなかでは、いちばん古いかも。


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一説には、新田義顕は尊良親王に落ち延びるよう勧めたといいますが、親王は同胞たちを見捨てて逃げることはできないと述べて拒絶し、強く自刃を希望したため、義顕は応じたと言われます。

『太平記』によると、親王は義顕に「自害の方法とはどのようなものか?」と問い、義顕は涙ながらに「自害とはこの様にするものでございます。」と、親王の目の前で腹を切って倒れました。

それを見た親王も、直ちにを手にして腹を切り、義顕の上に折り重なるように倒れ、続いて付き従っていた300人も同じく親王に殉じたと記しています。

このとき、尊良親王27歳、新田義顕は18歳でした。


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この半年間の戦いの最中、後醍醐天皇は吉野に逃れ、吉野朝(南朝)を開きました。

たぶん、そのことは尊良親王も聞き及んでいたでしょう。

あるいは、父に付き従っていれば、南朝第2代天皇は尊良親王だったかもしれません。

無念だったでしょうね。



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by sakanoueno-kumo | 2017-08-25 22:19 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

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