太平記を歩く。 その114 「杣山城跡」 福井県南条郡南越前町

「その110」で紹介した金ヶ崎城跡から直線距離にして20kmほど北西にある杣山城跡を訪れました。

ここは、金ヶ崎城の戦い新田義貞軍に加担した瓜生氏の居城でした。


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杣山城は標高492m比高402mの山頂にあり、登山道は険峻ガッツリ登山系の城跡です。


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この日は早朝に神戸を出て、車で2時間半かけて敦賀市に入り、午前中に金ヶ崎城跡をめぐり、午後から約30分かけてここに来ました。

結構つかれていたのでどうしようか迷ったのですが、せっかく来たので登ることに。


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登山コースはいくつかありましたが、この日は、いちばんポピュラーだという第2登山口から居館跡のあいだを通って登るコースを選びました。


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麓の谷間の居館跡です。

幅約100m奥行き約300mの広大な面積です。


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谷の開口部には「一ノ城戸」と呼ばれる幅約100m、高さ3m土塁が残されています。


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居館跡を抜けると、登山道が始まります。

最初は階段がつくられていて登りやすいのですが・・・。


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しばらく登ると、なにかの石垣跡があります。

これはたぶん城跡のものじゃないでしょうね。


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西御殿跡経由のコースを選びます。


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延元元年/建武3年(1336年)10月13日、金ヶ崎城に入った新田義貞は、ここ杣山城の瓜生保とその兄弟に援軍を要請します。

これを受けた瓜生保は、いったんは義貞に味方したかと思えば、足利尊氏からの偽の綸旨に踊らされて義貞に敵対したりと右往左往するのですが、最終的には新田軍に与し、年が明けた正月11日、瓜生保は金ヶ崎城に食糧を運ぶべくここ杣山城を出兵し、その道中、戦死したと伝えられます。

その後、金ヶ崎城の落城直前に城を脱出した義貞は、ここ杣山城に入ります。


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中腹を過ぎたあたりに、ハート型をした洞窟が見えます。


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この洞窟は「姫穴」と呼ばれ、新田義貞の妻・匂当内待が、この穴に一時隠れていたという伝承があるそうです。


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それほど深くないので、隠れていてもすぐに見つかりそうですが。


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姫穴を過ぎると、登山道はいっそう険峻になります。


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標高400m附近にある「殿池」です。


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ここは、山城の唯一の水源だったようです。


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殿池のすぐ上に「西御殿跡」があります。

西御殿跡の周りの西尾根には、殿池の場所も含めて大小17の削平地があります。

そのなかには礎石が見つかった削平地もあるそうで、何らかの建物が建っていた可能性も考えられているそうです。


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西御殿跡に設置された案内板です。


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西御殿跡から本丸跡までは、緩やかな尾根道になります。

ただ、道の周りは大きな岩がゴロゴロあって、決して歩きやすくはありません。


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「袿掛岩」と呼ばれる断崖絶壁に面した岩場です。


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ここは、瓜生保が戦死したと聞いた奥方侍女たちが、この絶壁の岩に袿をかけて飛び降り、自害したという伝承がある岩だそうです。


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試しに覗き込んでみましたが、高いところが苦手なわたしは、気分が悪くなって吐きそうになりました。


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袿掛岩を過ぎると、大きな「堀切跡」が現れます。

もうすぐ本丸跡ということですね。


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そして「本丸跡」入口。


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本丸は標高492mの頂上にあり、円形状の削平地が中央にあり、その一段下にも削平地があります。


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城下の様子が一望でき、なるほど、籠城するには最高のロケーションです。


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金ヶ崎城からここ杣山城に移った新田義貞は、その後、約1年近くここを拠点とし、四散していた新田軍を糾合して足利軍に対抗しました。


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一説には、金ヶ崎城が落城するずいぶん前から義貞は金ヶ崎城と杣山城を往復して指揮を取っていたとも言われており、2月に金ヶ崎城を出て、杣山城にいる間に金ヶ崎城が落城してしまったのではないかという見方もあるようです。


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下山道は東御殿跡コースを選びます。


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本丸から東御殿跡に向かう道中にも、無数の削平地が見られました。

これらも、おそらく何らかの曲輪跡なんでしょうね。


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そして「東御殿跡」

東御殿跡は南北に長い約600㎡の削平地で、礎石建物跡が残っています。


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説明板によると、足利軍との戦いの際に麓の居館を捨てた瓜生保が立て籠もったのが、ここ東御殿だったそうです。


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枯れてしまっていますが、かなりの樹齢と思われる巨木が。

あるいは往時を知っているかもしれません。


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東御殿を過ぎた下山コースがまた過酷で、ほとんど道なき道を進む感じでした。


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下山道を覆う断崖絶壁の岩場

写真じゃこの迫力は伝わりづらいですね。


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下山して再び居館跡から城跡を見上げます。


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よく見ると、杣山が岩によって出来た山だということがわかります。


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西御殿から本丸までの尾根伝いも、こうして見るとよくわかりますね。


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で、普通ならこれで終わりなんですが、杣山城の遺構はまだあります。

居館跡から約1km西に、「二の城戸外濠跡」と書かれた説明板と、土塁と堀の跡と思しき遺構が残っています。


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南越前町のHPによると、このあたりには武家屋敷があったとされているそうです。


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二の城戸外濠跡の側には、「史蹟 杣山城趾」と刻まれた石碑と、小さながあります。


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杣山城はその後、幾多も城主を変えながら戦国時代まで存在したようですが、天正元年(1573年)、織田信長北陸攻めにより廃城となりました。

その後、天正2年(1574年)には一向一揆が杣山に拠ったとされますが、詳細は不明です。




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by sakanoueno-kumo | 2017-08-31 23:58 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

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