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おんな城主 直虎 第35話「蘇えりし者たち」 ~戦国大名・今川氏の滅亡~

 徳川家康堀川城で起きた気賀の農民たちの一揆大虐殺でもって鎮圧したちょうど同じ頃、駿府を逃れた今川氏真が籠る掛川城を徳川方の本多忠勝らが攻撃していました。しかし、こちらも今川方が執拗な粘りを見せ、戦いは五分五分といったところで双方に多数の犠牲者を出します。また、今川方の大沢基胤も浜名湖の東岸のある堀江城に籠って徳川軍の攻撃に抵抗しつづけ、家康を悩ませていました(ドラマでは、堀川城の大虐殺が見せしめとなって大沢基胤が降伏したかのように描かれていましたが、実際には、基胤はその後、約1か月間持ちこたえています)。


 徳川軍の掛川城包囲戦が長期化の様相となるなかで、駿府に侵攻していた武田信玄が、家康との約定を反故にして遠江への圧迫を強めます。信玄は信玄で、駿府へ侵攻したまではよかったものの、今川氏から援軍要請を受けた北条氏によって逆に包囲され、窮地に立たされていました。これにより徳川と武田は手切れとなり、家康は氏真との和睦を模索しはじめます。


 家康は今川配下の小倉勝久和睦交渉の話を持ち掛けます。その条件は、武田軍を一掃し、氏真を再び駿河に戻すというものでした(この約束が果たされなかったことは歴史の示すとおりです)。一方で家康は、今川配下の諸将への調略も同時進行で進めており、そのなかには堀江城に籠る大沢基胤もいました。基胤は家康からの懐柔策に対して、苦慮のすえ、氏真に降伏を許可して貰うための書状を送っています。これに対して氏康は、今川家の逼迫した情勢を考えて基胤の申し出を受け入れ、徳川の軍門に下ることを許可したうえで、これまでの働きをねぎらったといいます。離反者があとを絶たなかった今川家において、基胤は最後まで今川家のために力を尽くした忠義の武将でした。その功あってか、大沢氏はその後徳川家の高家旗本として、幕末まで続きます。


 話を和睦交渉に戻すと、その後、家康と氏康の和睦交渉はスムーズに進み、永禄12年(1569年)5月17日、氏真は掛川城を開城します。「蹴鞠で雌雄を決したい」とはおそらく言っていません。一国の主らしく、家臣の助命と引き換えに堂々と城をあとにします。このとき、家康は警護の兵を派遣しています。家康としても、かつての主君に対する精一杯の礼儀だったのでしょうね。戦国大名としての今川氏は、このときをもって滅亡しました。


 その後、氏真自身は江戸時代まで生き長らえます。その後半生は、得意な蹴鞠和歌に明け暮れた日々となります。ある意味、ようやく身の丈に合った人生を手に入れたといえるかもしれません。そう考えると、勝負に負けることが必ずしも人生の負けとはいえないかもしれませんね。そして、その氏真の後半生に、妻の早川殿はずっと寄り添い続けました。甲相駿三国同盟で生まれた3組の夫婦のなかで、最後まで添い遂げたのはこの夫婦だけです。ある意味、幸せな人生だったかもしれません。


 井伊谷三人衆のひとり、鈴木重時が大沢基胤の籠る堀江城攻めで戦死したのは史実ですが、近藤康用は出陣しておらず、厳密には康用の子・近藤秀用が父の代わりに従軍していました。康用はこのとき既に長年の戦働きによる負傷で歩行困難になっていたとのことですが、ドラマでは、それをこの戦いでの負傷にしたようです。まあ、康用はこのドラマでは主要人物ですからね。このぐらいの設定変更はいいんじゃないでしょうか。


 少しだけドラマの話をすると、ようやく政次ロスから立ち直りはじめた直虎の姿が描かれた今話でしたね。隠し里で暮らす井伊家の人々も、日常を取り戻しつつあるようです。もし、あのとき南渓和尚のプラン通り、政次と直虎を気賀に逃していたら・・・結局は堀川城の一揆に巻き込まれて政次と直虎も命を落としていたかもしれませんし、そうなると、井伊家はもっと窮地に立たされていたでしょう。「俺ひとりの首で済ますのが最も血が流れぬ」と言った政次のプランが、やはり正解だったんですね。さすが、死して尚、存在感を示す但馬守です。



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by sakanoueno-kumo | 2017-09-04 16:47 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

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