太平記を歩く。 その124 「花山院邸跡(宗像神社)」 京都市上京区
京都御苑内にある宗像神社を訪れました。
ここは、かつて花山院邸があった場所で、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が、一時幽閉されていた場所です。
建武の新政が崩壊し、延元元年/建武3年(1336年)10月10日、足利尊氏に降伏した後醍醐天皇は、ここ花山院に幽閉されることになります。
ここで天皇は厳しく監視され、これまで従っていた側近たちは引き離され、接触できるのは女房達だけだったといいます。
11月1日、ここで後醍醐天皇と足利尊氏の会見が行われます。
尊氏の要求は、三種の神器の引き渡しでした。
尊氏は8月に持明院統の光明天皇(北朝第2代天皇)を即位させており、その正当性を得るためにも、三種の神器が必要だったわけです。
そこで、尊氏は次の天皇には後醍醐天皇の皇子の成良親王を即位させることを約束します。
この条件を後醍醐天皇は受け入れ、三種の神器を光明天皇に引き渡しました。
しかし、実はこの三種の神器は偽物でした。
天皇は尊氏を信用していなかったんですね。
12月21日、後醍醐天皇はわずかな供を従えて花山院を抜け出し、かつて大塔宮護良親王が挙兵した吉野へと向かいました。
吉野へと落ちのびた後醍醐天皇は、その地で新たな朝廷を樹立します。
これが吉野朝廷、いわゆる南朝ですね。
これにより、尊氏が立てた光明天皇の朝廷は北朝となります。
かくして南北朝の争乱がはじまったわけです。
「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。
↓↓↓
ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
↓↓↓
by sakanoueno-kumo | 2017-09-16 01:42 | 太平記を歩く | Trackback(2) | Comments(0)
今日は4月最後の休み。朝から栃木市内の友人を訪ね、陽光の下、川下りに遊び、焼きそばをご馳走になった後、独り足を延ばして足利に来ております。足利と言えば、足利学校でしょうが、むしろ私が見たかったのが足利尊氏で知られる足利氏の足跡を訪ねることでした。で、行きたかったのが足利氏邸宅跡と言われる鑁阿(ばんな)寺。(←足利氏邸宅址に建つ楼門です。尊氏・直義兄弟も、高兄弟もこの地で育まれたのだと。)しかし、それならば、その後の関東公方らはなぜ、この足利の地に本拠を構えなかったのでしょうか?元々、益少なき地ならば...... more
ずっと気になっていましたが、寸暇を惜しんで以前の続きです。足利館跡と言われる鑁阿寺でしたが、確かに、往時を偲ばせる土塁や堀はありましたが、私には何だか、後世になってからの物であるような観がありましたし、それ以前に私にはここが足利館跡・・・ということにどうにも違和感がありました。で、その結果、気がついたのが背後にある山(↑)・・・。私としたことが迂闊でした。織田信長の岐阜城にしても武田信玄の躑躅ヶ崎にしても、普段は麓の館で暮らし、有事の際に背後の峻厳な山を利用する・・・という造りになっていたのを思い出...... more