おんな城主 直虎 第37話「武田が来たりて火を放つ」 ~三方ヶ原の戦い~

若き日の徳川家康が無謀にも武田信玄に戦いを挑み、大敗北を喫したことで知られる「三方ヶ原の戦い」の回です。


元亀2年(1571年)、室町幕府15代将軍・足利義昭織田信長討伐令を出し、これに応えるかたちで武田信玄は、徳川の領国である遠江国、三河国に侵攻する西上作戦を行います。信玄の西上を可能にしたのは、相模国北条氏康が死んだことで再び北条氏と和睦して甲相同盟を結び、後顧の憂いが絶たれたことにありました。信玄は破竹の勢いで侵攻し、徳川領の支城を次々と落としていきます。


 武田軍は南進して家康の居城・浜松城を攻める進路を取ります。これに対して家康は、織田から送られた援軍と共に籠城戦で迎え討つべく準備を進めます。ところが、武田軍は途中で急に進路を西に変えて三方ヶ原台地に上がり、そのまま浜松城を無視して三河国に向かう姿勢を示します。これを知った家康は、急遽、作戦を変更。一部家臣の反対を押し切り、武田軍を背後から襲う積極攻撃策に打って出ました。


 信玄がなぜ進路を変えたかについては、あえて浜松城を無視することで家康を挑発し、得意の野戦に持ち込むためだったと言われますが、確かなことはわかりません。当時、信玄は百戦錬磨の51歳。一方の家康は31歳の血気にはやる武将で、自分の庭を土足で通る武田軍を許しがたく、まんまと信玄の挑発に乗った、というのが一般的な見方です。また、ここで武田軍が通り過ぎるのを指をくわえて見ているようでは、家臣や国人衆たちから見限られる恐れがあったからかもしれません。いずれにせよ、家康は敗北を恐れずに打って出る覚悟を決めます。


 劇中の家康は、織田を見限って武田に下る決断をするも、そこへ織田からの援軍が訪れ、やむなく武田軍と戦うことに。援軍を得てガッカリする武将というもの珍しい(笑)。今回のドラマの家康は、いつも受け身の行動ですね。ここまではその受け身が功を奏してきましたが、今回はそうはいきません。


e0158128_21470434.jpg 三方ヶ原を通過する武田軍を背後から突こうと出撃した徳川軍でしたが、武田軍はその心を読み、三方ヶ原を通過せずに待ち構えていました。およそ2万5千と伝わる武田軍に対して、徳川軍は半分以下の約1万(諸説あり)。しかも、野戦を得意中の得意とする信玄ですから、若い家康が太刀打ち出来るはずがありません。徳川軍はわずか2時間あまりで大敗北を喫します。敗走する徳川軍を武田軍は執拗に追撃し、夏目吉信、鈴木久三郎ら三河譜代の家臣たちが、家康の身代わりになって討死しました。家康は恐怖のあまり鞍の上に脱糞したといわれ、それを部下に指摘されると、「これは味噌だ!」と反論したなんて逸話もあります。これ、劇中にもありましたね。家康はこのときの大失策を今後の戒めにするため、「しかみ像」と呼ばれる肖像画を書かせたとも言われます(異説あり)。劇中の家康は、帰陣するなりしがみポーズをとってましたね。


 武田軍の徳川領侵攻の影響は、井伊直虎たちの住む井伊谷にも及びました。井伊谷には信玄率いる本隊とは別の山県昌景が侵攻し、ことごとく焼き払われたと伝えられます。ところが、ドラマでは武田に帰順することを良しとしない近藤康用が、せめてもの抵抗で城に火を放って逃げるという設定でしたね。まあ、武田軍が井伊谷を焼き払ったという説は確かな史料は存在せず、伝承レベルの逸話なので、ドラマのような設定でも何ら問題はないかと思いますが、でも、だったら、今話のタイトルは「武田が来たりて近藤が火を放つ」なんじゃないかと(笑)。字余りですが。



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by sakanoueno-kumo | 2017-09-18 21:52 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

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