坂本龍馬 没後150年の節目に再考する暗殺犯の諸説。 その3
今回は、紀州藩士報復説について考えます。
坂本龍馬が暗殺される約半年前の慶応3年(1867年)4月23日、龍馬率いる海援隊の汽船・いろは丸と、紀州藩の大型汽船・明光丸が瀬戸内海讃岐沖で衝突する事件が発生しますが(いろは丸事件)、このとき龍馬は紀州藩との談判で一歩も引かず、金塊や武器弾薬などの積荷分、8万3,526両198文の損害賠償を要求し(江戸時代後期の1両は現在の価値に換算すると3万円から5万円で、約25億円~42億円に相当します)、その後、後藤の協力も得て龍馬はこの日本最初の海難審判に全面勝利します(平成に入ってからの海底のいろは丸の潜水調査では、龍馬の主張した武器類は見つからなかったのですが、その話はまた別の機会に)。
その後、紀州藩からの減額交渉があり、紀州藩が海援隊に賠償金7万両を支払うことで決着を見るのですが、その7万両が土佐商会(土佐藩が経営する長崎の商社で、この当時、海援隊を管理していた)に支払われたのが11月7日。
しかし、その8日後に龍馬は凶刃に倒れます。
龍馬の死を知った海援隊士たちが最初に疑ったのが、紀州藩士による「いろは丸事件」の報復でした。
海援隊士・陸奥陽之助(宗光)は、実行犯を新選組、そしてその黒幕を紀州藩公用人の三浦休太郎(安)と決めつけます。
陸奥たちが三浦を疑ったのは無理もなかったでしょう。
龍馬が暗殺された約3週間後の12月7日夜、陸奥陽之助ら海援隊・陸援隊士16名が、三浦が泊まっていた京都の油小路花屋町下ルにある「天満屋」を襲撃します。
しかし、身の危険を察知していた三浦は、会津藩を通して新選組に警護を依頼しており、襲撃当日は、新選組隊士らと酒宴の最中でした。
そのため、狭い天満屋は双方入り乱れた大乱闘となり、三浦の家臣2名、新撰組隊士1名、襲撃者側に1名の死者が出ましたが、三浦本人は、顔に軽いけがをしただけでした。
世にいう「天満屋事件」です。
この紀州藩士報復説は、もっともわかりやすい動機といえ、陸奥らが真っ先に疑ったのは当然だったかもしれません。
よくよく考えてみると、三浦が龍馬を殺して恨みを晴らしたという推論は、ちょっと短絡的すぎる気がしますね。
「いろは丸事件」の談判は、事故発生当初は海援隊と紀州藩汽船・明光丸の間で行われていましたが、途中から、龍馬は土佐藩家老の後藤象二郎を引きずり出し、土佐藩vs紀州藩の政治的な談判に持ち込みました。
そしてその談判に紀州藩は全面敗訴したわけで、その賠償金も支払ったあとでした。
もし、ここで三浦が龍馬を殺したとなれば、藩間の政治問題に発展します。
そんなリスクを負ってまで恨みを晴らすなど、あまりにも稚拙な行動といっていいでしょう。
藩の外交を任されるほどの人物だった三浦が、そんな軽挙に至ったとは考えづらいですね。
もし、龍馬を殺すなら、談判の最中だったんじゃないでしょうか?
談判が終わり、賠償金も支払ったあとに龍馬を殺しても、紀州藩は何の得も得られません。
動機としては単純明快でわかりやすい紀州藩士報復説ですが、信憑性は薄いですね。
維新後、三浦は諱である安を名乗り、大蔵省官吏、元老院議官、貴族院議員を経て、第13代東京府知事を務めたあと、明治43年(1910年)、81歳まで長寿します。
それだけ明治政府に貢献しながら、後世に、坂本龍馬を殺した(かもしれない)人物として名が知られているのは、少々気の毒な気がしますね。
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by sakanoueno-kumo | 2017-11-18 09:28 | 歴史考察 | Trackback | Comments(2)
おそらく、実行犯は見回り組犯行説で間違いなく、当初は「捕縛」だったけど、一度、逃げられていることもあって、パニクった若いのが斬ってしまったと。
ああいうものはそんなに計画通りにはいかないのが普通で。
藤吉・・・でしたっけ?
彼を殺したのも突発的判断だったと。
まあ、暗殺されやすい環境を作り出していた云々はまた別でしょうけどね。
最近ではそういう見方になっているんですね。
まあ、たしかに、真実は意外とそんなもんなのかもしれないですね。
少なくとも、現在に伝わる中岡慎太郎の証言ってやつは、どこまで信用できるかあやしいものだとは思っていました。
自らも襲われているのに、そんなに克明に観察できるだそうか・・・と。