坂本龍馬 没後150年の節目に再考する暗殺犯の諸説。 その4

坂本龍馬暗殺の黒幕説として、ここまで松平容保説と薩摩藩説、紀州藩士報復説を考えましたが、もうひとつの有力な説として、土佐藩説があります。

実は、最近のわたしは、この説にいちばん信憑性を感じています。


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一般的に言われる土佐藩黒幕説は、具体的な人物名でいえば参政の後藤象二郎ですね。

かつては龍馬の盟友・武市半平太率いる土佐勤王党弾圧した後藤でしたが、慶応2年(1866年)に長崎に出張して以来、龍馬と深く関わるようになり、次第に龍馬に感化されていきます。

そして慶応3年(1867年)、龍馬の発案とされる船中八策に基づいて大政奉還を土佐の藩論とし、将軍・徳川慶喜に上申して実現に至るのですが、この働きが藩主の父・山内容堂から高く評価され、大きく栄進します。

しかし、後藤はこれが龍馬の発案だとは明かしませんでした。

この一連の発案が龍馬であることを隠すために龍馬を亡き者にした・・・というのがこの説の推論ですが、であれば、そのことを知るすべての人物を殺さねばならず、動機としては無理があります。

それに、後藤象二郎という人物像の他のエピソードなどから見ても、そこまで器の小さな人物だったとも思えません。

龍馬の名を容堂に明かさなかったのも、明かす必要がなかったからではないでしょうか。

いくら坂本龍馬という名が天下に轟いていたとしても、土佐に帰れば下級藩士

藩主の耳に入れるべき人物ではなかったでしょうし、後藤にしてみれば、特にそれが普通の感覚だったんじゃないかと思います。

後藤自身としても、龍馬の能力は認めつつも、所詮は郷士といった見下した感情があったでしょうし、むしろ、自分が龍馬を使っているといった気分だったんじゃないでしょうか。

龍馬の手柄を横取りしたなんて意識は毛頭なかったと思います。


じゃあ、他にどのような動機があったか・・・。

この点で、ある方のブログを読んで目からウロコが落ちました(参照:しばやんの日々「坂本龍馬の暗殺は誰がやったのか ~~その2」)。


前稿でも紹介しましたが、龍馬が暗殺される約半年前の慶応3年(1867年)4月23日に起きた「いろは丸事件」で、龍馬は紀州藩との談判で一歩も引かず、金塊武器弾薬などの積荷分、8万3,526両198文損害賠償を要求し(江戸時代後期の1両は現在の価値に換算すると3万円から5万円で、約25億円~42億円に相当します)、その後、後藤の協力も得て龍馬はこの日本最初の海難審判に全面勝利します(平成に入ってからの海底のいろは丸の潜水調査では、龍馬の主張した武器類は見つからなかったのですが、その話はまた別の機会に)。

その後、紀州藩からの減額交渉があり、紀州藩が海援隊に賠償金7万両を支払うことで決着を見るのですが、その7万両が土佐商会(土佐藩が経営する長崎の商社で、この当時、海援隊を管理していた)に支払われたのが11月7日。

しかし、その8日後に龍馬は凶刃に倒れます。

なんか匂いませんか?

本来であれば、そのうちの約半分の船の損害金は、船のオーナーである大洲藩に支払われるべきでしたが、実際に支払われた形跡がないそうです。

その後、その7万両がどうなったのか・・・。

ここで登場するのが、のちに三菱財閥の創始者となる岩崎弥太郎です。


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龍馬の死によって求心力を失った海援隊は解散を余儀なくされ、その事業と資産は後藤と岩崎に引き継がれ、やがては岩崎の立ち上げた九十九商会に繋がっていきますが、のちに岩崎は、明治政府が信用のなくなった藩札をすべて買い上げるという後藤からのインサイダー情報によって、10万両で藩札を安く買い漁ってボロ儲けします。

この資金の出どころが、いろは丸事件の賠償金だったんじゃないかと・・・。

岩崎は龍馬が暗殺された数ヶ月前、龍馬が長崎から上京していく船を見送った日の日記に、「余、不覚にも数更の涙を流す」と記しているそうです。

それほどの関係にありながら、岩崎は、龍馬が暗殺される少し前の10月28日から龍馬が殺されたあとの11月22日まで大阪に滞在していますが、その間、龍馬をまったく訪ねていません。

これは少し不自然な気がしますよね。

まるで何かを知っていたかのような・・・。


実際に後藤と岩崎が龍馬を亡き者にするために見廻組に指示したというのは考えづらいとしても、龍馬の居場所をリークした、ということは考えられなくもない気がします。

龍馬が近江屋に潜伏していた事実を知っていたのは、土佐藩士の一部だけだったといい、当然そのなかには、後藤が含まれています(もっとも、龍馬自身が不用心に出歩いていたため、近江屋潜伏の事実は知れ渡っていたとも言われますが)。

後藤は経済面においては公私混同も甚だしかったといい、岩崎も、かつて土佐藩の公金100両を使い込んで役職を罷免された前科があります。

ふたりとも、金に目がくらんでもおかしくない男だとは、ちょっと言い過ぎでしょうか。

でも、暗殺の動機としては、政治的なものや思想的なものより、よほど現実味があるように思うのですが・・・。


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土佐藩黒幕説には、他にも谷干城説があります。

谷は龍馬の暗殺現場に真っ先に駆けつけた人物で、瀕死の中岡慎太郎から事情を聞きだし、新選組の仕業と決めつけ、局長・近藤勇斬首に処したのも谷でした。

見方を変えれば、その新選組説を作ったのが谷だったとも言えるわけで、のちに見廻組今井信郎が暗殺を自供したときも、売名行為だとしてこれを認めようとしませんでした。

谷は龍馬の暗殺犯を生涯かけて追いかけたと言われていますが、どうも、不自然な気がしないでもないです。

現在伝わる龍馬と慎太郎襲撃時の話は、事件発生後に現場に駆けつけた田中光顕や谷干城らが、意識のあった慎太郎から聞いた話しだと言われていますが、自らも襲われて瀕死の重症を負っていた慎太郎としては、あまりにも克明過ぎる証言をしています。

龍馬はまず初太刀で横なぎに斬られて、床の間に置いていた刀を取ろうとした際に背中を斬られ、刀を手にしてごと相手の太刀を受け止めるも、そのまま額に太刀を受け、これが致命傷となって死んだ・・と。

自分も襲われているのに、そんなに詳しく観察できるものでしょうか?

谷たちが作った話なんじゃないかと・・・。


いずれにせよ、龍馬が潜伏していた近江屋は、土佐藩邸の目と鼻の先にあり、であれば、なぜ土佐藩邸に寝泊まりしなかったのかという疑問は拭いきれません。

組織に縛られるのが嫌な性分だった・・・というのは物語などに見る龍馬像ですが、実際には、そんなカッコイイ理由ではなく、何か、土佐藩邸には入りたくない、入っても安全とはいえない理由があったんじゃないでしょうか。

残念ながら、この時期の龍馬には、安全な場所などどこにもなかったような気がします。


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他にも、紀州藩説新選組説御陵衛士説や、なかには中岡慎太郎との心中説まで、様々な推論、邪論がありますが、結局はどれも決定的な論証はなく、推論の域をでません。

通常、推理小説などで犯人探しをする場合、「恨みを抱いていたのは誰か?」「目障りに思っていたのは誰か?」「得をしたのは誰か?」といった着眼点で絞り込みますが、龍馬の場合、その条件に当てはまる人物がたくさんいるんですよね。

それが、これだけ多くの説を生むことになったと言えます。

後世の私たちから見れば愛すべき人物像の坂本龍馬ですが、同時代に生きる者たちにとっては、必ずしもそうではなかったようです。


龍馬の語録にこんな言葉があります。


「義理などは夢にも思ふことなかれ。身をしばらるるものなり。」

「薄情の道、不人情の道、わするることなかれ。」


大事を成すためには、義理や情を捨てよ、という意味ですね。

本当に龍馬がこの言葉どおり生きていたかはわりませんが、国事に疾走するための自戒の念を込めた言葉だったのでしょう。

龍馬の持つ、明るく、楽天的で、濶達な、愛すべき人物像とは裏腹に、この時期の龍馬は、土佐からも、薩摩からも、長州からも、幕府からも理解されることのない、孤立した存在となっていたといえます。

その意味では、非業の最後は、避けられない必然だったのかもしれません。








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by sakanoueno-kumo | 2017-11-19 00:26 | 歴史考察 | Trackback | Comments(4)  

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Commented by しばやん at 2017-11-20 21:39 x
こんばんは。
拙ブログ記事を紹介いただきありがとうございます。
拙ブログでも坂本龍馬暗殺について4回に分けて書きましたが、紹介いただいた岩崎弥太郎に関する記事は友人と議論したことがきっかけで書いた思い出の記事です。
岩崎弥太郎について最近また別の記事を書きましたが、白柳秀湖著『岩崎彌太郎伝』によると、弥太郎が土佐藩札を買いまくった時の10万両の資金の出どころは『米キ』という業者だったようです。しかしそのような大金をなぜ『米キ』が融通したかということを考えると、いろは丸の賠償金と無関係ではないような気がします。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-524.html
Commented by sakanoueno-kumo at 2017-11-21 17:19
> しばやんさん

こちらこそ、事後承諾になってしまい、申し訳ありません。
後藤、岩崎共謀説については、以前、貴ブログを拝読した際には、なるほど!とは思ったものの、すこし深読みし過ぎのようにも思っていたのですが、その後、いろいろ考え合わせていくうちに、だんだんあり得るんじゃないかと思い始めました。
政治的や思想的な動機のほうが、むしろ深読みなんじゃないかと。
その点、金目的のこの説は、実はめちゃめちゃ単純明快でわかりやすい動機で、あり得そうに思えてきたんです。
岩崎はともかく、後藤にとって龍馬は、所詮は使い捨て程度の認識だったでしょうしね。
Commented by heitaroh at 2017-12-07 20:39
同感です。私も後藤が直接、手を下したとは思いませんが、彼が暗殺されやすい状況を作り出していたことは確かだろうと思います。それに、暗殺直前、龍馬が近くの知り合いを訪ねたけど、みんな留守だったというのも何か出来すぎのような気がするんですよね。みんな、「この日」だと知っていたと。
Commented by sakanoueno-kumo at 2017-12-08 00:48
> heitarohさん

以前、貴ブログで土佐藩の組織的な犯行という推論を立てておられましたよね?
わたしも、藩あげての組織的犯行だったかどうかはわかりませんが、最近では、土佐藩説が最も合点がいく気がしています。
幕府はともかく、薩摩藩は、それほど龍馬を重要視はしていなかったんじゃないかと。
いろんな意味で、この時期の龍馬をいちばん目障りに思っていたとすれば、それは土佐藩だttんじゃないかと、いまは思っています。
後藤や谷などの上士からすれば、下士の龍馬の命など、虫けら同然だったでしょうし。

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