西郷どん 第4話「新しき藩主」 ~お由羅騒動~

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 嘉永元年(1848年)12月、幕府から密貿易の件で咎められた薩摩藩家老の調所広郷急死(おそらく自害)すると、藩内外で賢明な島津斉彬の藩主就任を望む声が高まりますが、一方で、前話の稿で説明したとおり、洋学好きの斉彬を嫌うアンチ斉彬派の声も一層高まり、藩内の両派の対立が激化します。何より、アンチ斉彬派の筆頭が現藩主であり斉彬の実父である島津斉興でした。斉興は密貿易の情報を幕府主席老中の阿部正弘リークしたのは斉彬だと疑い(事実そうだった可能性が高い)、以前にも増して斉彬に対する怒りを露わにします。斉興にしてみれば、斉彬は自身が藩主になるために藩の秘密を売った不届き者という思いだったのでしょう。

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 アンチ斉彬派が望みを託したのは、斉興の側室・お由羅の方が産んだ島津久光でした。斉興は正室の周子(斉彬の生母)が死んだ後は正室を迎えなかったため、お由羅が事実上正室も同然の立場でした。お由羅は当時の史料中に「美にして艶也」とか「怜悧な上に天性の麗質」と記されているほど賢くて美人だったようで、斉興の寵愛ぶりは相当なものだったようです。また、その子・久光も、ドラマでは今のところマザコンバカ息子キャラですが、実際には、儒学、漢詩、国学に通じる一級の教養の持ち主で、十分に藩主が務まる人物でした。何より、斉彬と違って洋学に興味がなく、また、江戸生まれで江戸育ちの斉彬に対して薩摩生まれの薩摩育ちであったことも、藩内保守派にとっては好意の対象となったに違いありません。必然的に、藩内保守派は久光推し、革新派は斉彬推しという図式が生まれました。


 ちょうどこの頃、斉彬の子女が幼くして相次いで病没するという不幸に見舞われます。斉彬派の者たちは、これをお由羅や久光による呪詛が原因と疑います。この当時は呪詛の力が信じられていた時代だったんですね。その効力があったかどうかは別として、実際、お由羅方の呪詛が行われていたもといわれます。そんななか、嘉永2年(1849年)に斉彬の四男・篤之助が2歳で夭逝すると、彬・久光両派の対立は一触即発の状態となり、斉彬派の重鎮で町奉行兼物頭・近藤隆左衛門、同役・山田清安、船奉行・高崎五郎右衛門、そして、西郷吉兵衛、吉之助(隆盛)父子と縁の深かった赤山靭負らは、久光派の島津将曹、島津久宝らの暗殺を企てます。しかし、計画は事前に漏れ、怒った斉興は、斉彬派を一斉に検挙し、処分します。具体的には、嘉永2年(1849年)12月から翌年の夏にかけて、高崎五郎右衛門、赤山靭負ら6人が切腹となり、他にも、蟄居、遠島など総勢50人余りが処分されます。そのなかには、大久保次右衛門正助(利通)父子も含まれていました。世にいう「お由羅騒動」「近藤崩れ」「高崎崩れ」「嘉永朋党事件」です。


 赤山靭負の切腹の際には、赤山氏の御用人だった西郷吉兵衛が介錯人を務めたといいます(異説あり)。ドラマでは、西郷吉之助も切腹に立ち会っていましたが、伝承では、靭負は切腹の直前に自身の着物を吉之助に渡してくれるよう吉兵衛に頼んだといい、父が持ち帰った血染めの着物を見た吉之助は大きな衝撃を受け、靭負の志を継ぐことを決意したと伝わります。この話が事実かどうかはわかりませんが、縁の深かった靭負の死が、西郷のその後に大きな影響を与えたことは間違いないでしょう。


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 その後も藩内では斉彬派と久光派に分かれて対立が絶えませんでしたが、斉彬と個人的に親しい幕府主席老中の阿部正弘が、斉興に圧力を加え、暗に隠居を迫ります。ドラマでもありましたが、嘉永4年(1850年)正月、斉興が新年の祝辞言上のために江戸城に登城して将軍に謁した際、将軍より茶壺が下賜されます。これは大名を隠居させたいときに幕府のとる常套手段で、「茶でも飲んで余生を楽しみなさい」という意味でした。それでも斉興は無視し続けましたが、阿部は幕府のメンツにかけて薩摩に圧力をかけ、同年2月、斉興は渋々隠居願いを提出し、ようやく斉彬の襲封となります。斉興60歳、斉彬43歳でした。

 お家騒動の原因はどこでもたいてい同じで、父の愛情や家臣の心が、正当な継承権のあるよりの方に注がれるところから起こります。この「お由羅騒動」も同じですね。騒動の元凶は長幼の序を無視しようとした斉興にあるのですが、さすがに藩主を批判するのははばかられるため、斉彬派の怒りの矛先はお由羅に向かいます。西郷は生涯、お由羅を「妖婦め!」と憎み続けます。


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by sakanoueno-kumo | 2018-01-29 01:20 | 西郷どん | Trackback | Comments(4)  

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Commented by heitaroh at 2018-02-01 11:18
斉彬の写真と伝わる物と肖像ではだいぶ、印象が違いますよね。
年齢が違うのかもしれませんが、肖像の方はふっくらしてますが、写真は同じ人とは思えないくらい痩せてます。
どっちが正しいんですか?
Commented by sakanoueno-kumo at 2018-02-01 21:38
> heitarohさん

たしかにそうですよね。
どっちが正しいかと言われると、やはり、写真はウソをつかないんじゃないかと。
おっしゃるように、年齢が違うのかもしれませんが、身分の高い人の肖像画というのは、実物より良くなるように描かれるものですよね。
この時代は、少し太って描いたほうが喜ばれたんじゃないでしょうか?
恰幅がよく貫禄があるように見えますもんね。
写真の斉彬は少し貧相に感じます。

ちなみに、肖像画の斉彬は、大河ドラマ『翔ぶが如く』のときの加山雄三さん演じる斉彬にそっくりだとかねてから思っていました。
あのキャスティングは、この肖像画ありきだったんじゃないかと。
Commented by heitaroh at 2018-02-02 17:44
加山雄三は親父が薩摩人ですから。
彼の所も上級武士だったそうですから、もしかして、貴兄もそっち系の顔ですか?(笑)。
Commented by sakanoueno-kumo at 2018-02-03 21:42
> heitarohさん

そうか。
それであのキャスティングだったんですね。

わたしのは、おふくろが薩摩人、おやじが奄美人という家系にありながら、どちらかといえば薄い顔、俗に言う弥生系です。
純粋な薩摩隼人ではないのかもしれません。

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