幕末京都逍遥 その15 「霊山正法寺・品川弥二郎夫妻の墓」
前稿で紹介した霊明神社から、さらに坂を上った突き当りに、霊山正法寺という古い寺があるのですが、ここの境内にある墓地に、元長州藩士・品川弥二郎夫妻の墓があります。
霊山正法寺は延暦年間(782〜805)に最澄が開創し、霊山寺と号したことに始まると伝わります。
光孝天皇(第58代天皇)・宇多天皇(第59代天皇)の勅願所となり、元久年間(1200〜1206)には法然上人がここを法然念仏の道場としたといわれ、永和2年(1376)に国阿上人が入寺して時宗霊山派本山寺号を正法寺と改めたと伝えられます。
その後、応仁の乱の兵火で、一時、荒廃しますが、天正年間(1573~1592)に諸堂が整備され、江戸時代には時宗十二派の「霊山派」の本寺とされて栄えますが、明治以降衰退し、現在は本堂(釈迦堂)・庫裏などを残すのみとなっています。
門を潜って長い石段を上ります。
本堂が見えてきました。
本堂です。
あまり手入れされていないようで、寂れ感いっぱいです。
本堂脇の細い道を北に進みます。
ありました。
これが、品川弥二郎夫妻の墓です。
品川弥二郎は長州藩足軽の家に生まれ、15歳で松下村塾に入門。
吉田松陰の門下生となります。
松陰の死後は高杉晋作らと共に尊皇攘夷運動に奔走し、文久2年(1862年)のイギリス公使館焼討事件にも参加しています。
元治元年(1864年)の禁門の変では八幡隊長として参戦し、戊辰戦争では奥羽鎮撫総督参謀、整武隊参謀をつとめます。
維新後、明治3年(1870年)に欧州留学し、帰国後は、内務大書記官、内務少輔、農商務大輔などを歴任。
その後、駐独公使、宮中顧問官、枢密顧問官をへて、明治24年(1891年)に第1次松方正義内閣では内務大臣に就任しますが、翌年の第2回衆議院議員総選挙において、次官の白根専一とともに警察を動員して強力な選挙干渉を行ない、死者25人を出してしまった経緯を非難され、引責辞職に追い込まれます。
晩年は、吉田松陰の遺志を継ぎ京都に尊攘堂を創設し、勤王志士の霊を祀るとともに、志士の史料を集めました。
向かって右側が弥二郎、左側が夫人のお墓だそうです。
こちらが弥二郎の墓石です。
師の松陰は弥二郎のことを「温厚正直で人情に厚く、うわべを飾らない。抜きん出た能力はないが、心が広く奥深いのが優れている」と評したと伝わります。
こちらは弥二郎の妻・静子の墓石。
静子は、弥二郎と同郷の山縣有朋の姉・山縣寿子の長女だそうです。
弥二郎夫妻の墓がある場所からフェンス越しに北側に見えるのが、「その3」で紹介した東山霊山にある木戸孝允の墓です。
実は、木戸の墓を参ったとき、傍らに弥二郎の墓を示す道標の石碑があったのですが、いくら探してもそれらしき墓石が見つかりませんでした。
それが、下の写真です。
向こうに見えるフェンスの向こうに、弥二郎夫妻の墓があったんですね。
どうりで見つからなかったはずです。
かつては行き来できたのでしょうが、いまは東山霊山護国神社の敷地と霊山正法寺の敷地に分かれてしまい、行き来できなくなったのでしょう。
フェンスの下に見える石碑は、「元治元年甲子七月十九日戦死者埋骨所の碑」です。
こちらは、霊山正法寺側のフェンスの上から見た同碑。
「元治元年甲子七月十九日戦死者」とは、言うまでもなく禁門の変での死者のことです。
別名「蛤御門の変」、「甲子戦争」と呼ばれる京都のまちを火の海にしたこの事変については、また、別の機会に触れることにしましょう。
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by sakanoueno-kumo | 2018-03-16 04:42 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)