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幕末京都逍遥 その40 「角倉了以別邸跡・山縣有朋別邸跡・望月亀弥太終焉伝承地」

前稿で紹介した法雲寺から南西に100mほど下った木屋町通横を流れる高瀬川の畔に、「角倉氏邸跡」と刻まれた石碑があります。

角倉氏とは、江戸時代初期の豪商・角倉了以のことで、了以は二条より鴨川の水を引いて伏見に達する高瀬川を開削し、京都伏見間の水運を開通させた人物です。

以後、江戸時代を通してこの地に角倉氏の邸があったそうですが、元治元年6月5日(1864年7月8日)に起きた池田屋事件で、土佐藩脱藩浪士の望月亀弥太が、この邸の前で自刃したと伝えられます。


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望月亀弥太は土佐勤皇党のメンバーで、同郷の坂本龍馬のとりなしで勝海舟が総監を務める神戸海軍操練所で航海術を学んでいましたが、文久3年8月18日(1863年9月30日)の八月十八日の政変で政局が一変すると、藩が土佐勤皇党のメンバーに帰国命令を出したため、脱藩して長州藩邸に潜伏していました。

そして長州藩士らと共に池田屋の集会に出席し、事件に巻き込まれます。

からくも池田屋を脱出した望月でしたが、幕府方に取り囲まれて深手を負い、かろうじて長州藩邸に辿り着いたものの中へ入ることを許されず、いったんは逃れるも、ここ角倉邸前で力尽きて切腹したと伝えられます。

享年27。


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角倉邸跡の石碑から木屋町通を挟んで東側にある「がんこ寿司」の門横には、「角倉了以別邸跡」と刻まれた石碑があります。


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ここは「高瀬川源流庭苑」とも呼ばれ、角倉了以が建設した日本庭園があった場所だそうですが、明治に入ると、山縣有朋がこの地に「第二無鄰菴」と称される別邸を建設しました。

「第二」とつくのは「無鄰菴」と名付けられた山縣邸が3ヵ所あったからで、最初の無鄰菴は山縣の郷里である長州の下関につくられ、第二の無鄰菴がここ、そして、第三の無鄰菴は京都東山の南禅寺の参道前につくられました。


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なかをのぞくと、「山縣有朋第二無鄰菴」と刻まれた石碑が見えます。


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庭園は「がんこ寿司」さんに声をかけると見学できるそうですが、何も食べずに見学だけに入るのは何となくはばかられ、門前だけで失礼しました。




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by sakanoueno-kumo | 2018-04-24 22:42 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(2)  

Commented by heitaroh at 2018-05-19 16:39
小田原にあったのでは・・・と思ったら、あちらは古稀庵でしたね。
どうして名前変えたんだろう。心境の変化とか?(笑)。
Commented by sakanoueno-kumo at 2018-05-19 19:48
> heitarohさん

ごめんなさい。
小田原のほうは知らなかったです。

山縣の別荘は京都にはもうひとつ「無鄰菴」という場所があり、そっちのほうが有名です。
ただ、明治の後半に建てられたものなので、幕末シリーズからは除外しました。
ここも、幕末ではないのですが、望月亀弥太のついでに紹介した次第です。

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