幕末京都逍遥 その85 「赤松小三郎の墓(金戒光明寺)」
金戒光明寺の墓地内には、會津墓地以外にも多くの歴史上の人物の墓がありますが、幕末の人物でいえば、「その53」で紹介した信州上田藩士の赤松小三郎の墓があります。
赤松は大政奉還の約半年前の慶応3年(1867年)5月に、二院制の議会の創設、選挙による議会政治、内閣総理大臣(赤松の訳語では「大閣老」)以下6人の大臣を議会が選出するという議院内閣制度など、現代にも通じる具体的な新国家構想が書かれた「建白七策」を提唱した人物として知られ、また、薩摩藩が長州藩と武力討幕計画を固めるなか、内戦の危機を回避しようと、薩摩の西郷隆盛や小松帯刀、幕府の永井尚志らとギリギリまで交渉していました。
しかし、彼の考えがあまりにも開明的でありすぎたため単純攘夷思想の志士たちらの理解を得ることができず、慶応3年9月3日(1867年9月30日)、京都から上田に帰る途中に待ち伏せていた中村半次郎(桐野利秋)らに暗殺されました。
赤松はかつて薩摩藩からの要請で薩摩藩邸において学教授を務めていたこともあり、中村半次郎も受講者のなかにいました。
赤松も、かつての教え子に殺されることになろうとは、思いもしなかったでしょう。
赤松を殺した実行犯が中村半次郎だったということは、大正8年(1919年)に旧薩摩藩士の有馬藤太が口述したことで明らかになりますが、その証言が確証されたのは、昭和47年(1972年)に半次郎の『京在日記』の散逸部分が発見され、半次郎本人が赤松暗殺を日記に克明に綴っていたことが判明したためでした。
半次郎はその日記で、「幕奸だから斬った」と記述しています。
ただ、実行犯である半次郎が独断で行ったのか、あるいは半次郎に指示した人物がいたのかは定かではありません。
暗殺から3日後の9月6日、赤松の遺骸はここ金戒光明寺に葬られました。
そして12月6日に建てられた墓石には、「薩摩受業門生謹識」として薩摩藩門下生が、赤松に対する称賛と死を悼む言葉を刻みました。
先生姓源諱某赤松氏称小三郎信濃上田人
也年甫十八慨然志於西洋之學受業同國佐
久間修理及幕府人勝麟太郞東自江戸西至
長崎游方有年多所發明後益察時勢之緩急
専務英學於其銃隊之法也尤精嘗譯英國歩
兵練法以公于世會我邦兵法採用英式旦夕
講習及聘致先生於京邸取其書更使校之原
本而肆業焉今歳之春 中将公在京師也
召見賜物先生感喜益尽精力而重訂書成十
巻上之 公深嘉称速命剞○将以有用於
天下國家也蓋先生平素之功於是乎為不朽
可不謂懿哉不幸終遭緑林之害而死年三十
有七實慶應三年丁卯秋九月三日也受業門
人驚慟之餘胥議而建墓於洛東黒谷之塋且
記其梗概以表追哀意云爾
薩摩受業門生謹識
当時の墓石は風化による傷みが激しく、平成23年(2011年)に新しい墓石が建てられました。
元の墓石は、故郷の信州上田にある赤松小三郎記念館に記念碑として保管されているそうです。
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by sakanoueno-kumo | 2018-06-30 14:35 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)