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幕末京都逍遥 その95 「渡辺篤の墓(教善寺)」

前稿で紹介した松林寺から西へ600mほどのところにある教善寺の墓地に、坂本龍馬暗殺実行犯のひとり、渡辺篤の墓があると知って訪れました。


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渡辺篤は京都生まれの剣客で、京都見廻組の一員として禁門の変の折には二条城の警備を担当し、その役付けも、京都見廻組御雇七人扶持を皮切りに肝煎介肝煎と昇進。

当時は渡辺一郎と名乗っていたそうです。

その後、鳥羽・伏見の戦いに旧幕府軍側として参戦。

この頃に名前を「一郎」から「篤」に改名しています。

明治に入ってからは奈良県警の監察官となり、京都体育場の撃剣教師なども務めました。

そして、大正4年(1915年)1月6日に72歳で病没します。


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その晩年、死の淵に立った渡辺は、家族、知人を枕頭によび、「坂本龍馬を暗殺したのは自分である」と告白します。

龍馬の暗殺が京都見廻組の仕業であったことは、その暗殺団のメンバーだった今井信郎が明治3年(1870年)に供述したことによって既に明らかになっていましたが、今井の供述した暗殺メンバーには渡辺篤は入っておらず(今井の供述には渡辺吉太郎という人物がいましたが、渡辺篤とは別人だったようです)、また、今井と渡辺の証言には食い違う点も多く、事件後半世紀近く経った渡辺老人の証言をどこまで信用できるかはわかりません。

しかし、この告白は大正4年(1915年)8月5日木曜日の朝日新聞の11面に、「坂本龍馬を殺害した老剣客・悔恨の情に責められて逝く」という見出しで掲載されました。

維新後、龍馬の名声が高くなるにつれ、悔恨の情に責めらて苦しんでいたのかもしれません。


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渡辺篤の墓石は無縁仏となっており、残念ながら確認することはできませんでした。

ここに積み上げられているどれかが、渡辺のものと思われます。


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「渡邉」と刻まれた墓石を一基見つけましたが、違うようですね。


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最後に懺悔の告白をして逝った渡辺篤。

このなかのどこかで、安らかに眠っています。




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by sakanoueno-kumo | 2018-07-14 08:07 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

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