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西郷どん 第28話「勝と龍馬」 ~第一次長州征伐と勝海舟~

 わずか1日だけの戦闘で終わった禁門の変から4日後の元治元年7月23日(1864年8月24日)、朝廷より一橋慶喜に対して長州藩追討の命令が下ります。これを受けた慶喜は、翌日、西国諸藩に出兵令を出します。つまり、長州藩は正式に「朝敵」となったわけです。長州藩にとっては前年の八月十八日の政変で失った覇権を取り戻すための挙兵が、逆に、自分たちの首を絞める結果になったわけですね。ドラマでも少し触れていましたが、さらに、8月5日には、前年の馬関海峡における砲撃事件の賠償交渉が遅々として進まないことに業を煮やした英仏米蘭の四ヵ国連合艦隊17隻が馬関海峡に姿を現し、壇ノ浦砲台に向けて砲撃を開始。長州藩はコテンパンにやっつけられました。まさに、泣きっ面に蜂とはこのことでしょう。このときの長州藩は、国内外すべてを敵に回した究極のいじめられっ子でした。


西郷どん 第28話「勝と龍馬」 ~第一次長州征伐と勝海舟~_e0158128_15131310.jpg 西国諸藩に出兵令を出した幕府は、尾張藩前藩主の徳川慶勝征長総督に据え、10月末に進軍を開始し、11月中旬には攻撃を開始することを決定します。薩摩藩軍賦役を務めていた西郷吉之助(隆盛)も、当然、薩摩兵を率いて従軍することになるのですが、ところが、進軍開始を目前にした10月24日、西郷は総督の慶勝に対して長州藩を降伏させる腹案を進言します。具体的には、禁門の変を指揮した三家老の切腹、それに従った四参謀の斬刑、藩主親子の蟄居謹慎など、「長人(長州人)を以って長人を処置させる」という寛大案でした。禁門の変以降、長州藩内でも政権交代があり、この時点では、幕府恭順路線に転換していました。西郷はこれより少し前に下交渉のための人物を派遣し(ドラマでは中村半次郎(桐野利秋)川路正之進(利良)でしたが、実際に派遣されたのは高崎五六でした)、長州が恭順姿勢にあることを事前リサーチしていました。この西郷の進言を受けた慶勝は、異例にも西郷を参謀格に抜擢し、長州藩の処遇を一任します。ドラマでは、一橋慶喜が慶勝は「飾り」だとして西郷に全権を与えていましたが、実際には、西郷を大抜擢したのは慶勝でした。


 この西郷の策によって、長州征伐は戦わずして決着をみます。このときの西郷の心中については、後世にさまざまな解釈をよんでいます。薩長同盟はまだ1年以上先のことですが、いずれ長州と手を結ぶかもしれないことを想定して布石を打った、という見方や、西郷はこのとき既に幕府の末路を予見していた、とか、あるいは、すでに西郷は雄藩の連合政権を着想していた、などなど、どれも結果を知っている後世から見た解釈という感じもしますが、いずれにせよ、ここで戦争して長州藩を叩くのは得策ではないと考えたのでしょうね。ここで下手に恨みを買うより、長州人自らに裁いてもらった方がいい。長州藩内部がもめていることを知り、それを利用したわけです。西郷はこの時期から、巨大な政治家としての手腕があらわれはじめます。


西郷どん 第28話「勝と龍馬」 ~第一次長州征伐と勝海舟~_e0158128_17121459.jpg もっとも、ドラマのように西郷は最初から長州征伐に反対だったわけではなく、長州征伐の命令が下された当初は、武力行使論でした。そのことは、元治元年9月7日(1864年10月7日)付で国元の大久保一蔵(利通)に宛てた書簡中に「是非兵力を以て相迫り、其の上降を乞い候わば、僅かに領地を与え、東国辺へ国替迄は仰せつけられず候ては、往先御国(薩藩)の災害を成し、御手の延び兼ね候儀も計り難く」と記していることからもわかります。では、その後、なぜ、西郷に心境の変化があったのか・・・。そこで、よく言われるのが、勝麟太郎(海舟)との出会いですね。


 西郷と勝の出会いは9月中旬頃だったといわれますから、この大久保宛ての書簡のすぐあとのことですね。このとき幕府の軍艦奉行だった勝は、幕臣の身でありながら幕府中枢の悪態をさんざんについた上で、雄藩諸侯の合議制による共和政治の構想を西郷に吹き込んだといいます。西郷はこの会談で大いに目からうろこが落ちたようで、珍しく興奮した手紙を国元の大久保宛に送っています。西郷はこの勝との出会いによって、「倒幕」を意識するようになったといわれます。


西郷どん 第28話「勝と龍馬」 ~第一次長州征伐と勝海舟~_e0158128_14540330.jpg その勝の門人・坂本龍馬と西郷の最初の出会いは正確にはわかっていませんが、おそらくは勝の紹介だったでしょうから、たぶん同じ頃だったでしょう。ふたりの出会いについては、晩年の勝が語った『氷川清話』での話がよく知られていますね。西郷と会見して神戸に帰ってきた龍馬が、勝に西郷のことを報告しようとしないので、「ニ、三日は、坂本より云い出すのを待ちたれども、遂に堪りかねて『西郷はだうだ』と軽く問ひかくるや」龍馬はこう言ったといいます。


 「なるほど西郷といふやつは、わからぬやつだ。少しくたたけば少しく響き、大きくたたけば大きく響く。もし馬鹿なら大きな馬鹿で、利口なら大きな利口だらう。」


 あまりにも有名なエピソードですね。つまり、簡単にいえば、「つかみどころのない大人物」だといいたかったのでしょう。また、この龍馬のこの言葉の続きに、「残念なのはこれを突く撞木が小さかった」と、自分を西郷という鐘を突く撞木に例えて表現した言葉が有名ですが、これは上記『氷川清話』『追賛一話』などの勝の記録にはまったく記されておらず、出典がわかりません。おそらく後世に作られた脚色話と考えていいでしょう。


 龍馬との面会が西郷にどれほど印象を残したかはわかりませんが、勝との出会いは、明らかに西郷のその後に大きな影響を与えたようです。ふたりの歴史的会見はこの3年後のことですが、このときの会見も、歴史を大きく動かした瞬間だったといえるでしょうか。



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by sakanoueno-kumo | 2018-07-30 17:15 | 西郷どん | Trackback | Comments(0)  

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