幕末京都逍遥 その106 「角屋(島原)」
江戸時代の京都の花街「島原」には、寛永17年(1640年)もしくはは寛永18年(1641年)の創業当時の建物をそのまま今に伝える「角屋」があります。
江戸期の饗宴もてなしの文化の場である揚屋建築の唯一の遺構として、昭和27年(1952年)に国の重要文化財に指定されました。
島原には大きくふたつに分けて「置屋」と「揚屋」がありました。
「置屋」は、太夫や芸妓に芸を教える教育の場で、お客さんは出入りしません。
「揚屋」は、現代でいう料亭にあたり、置屋から太夫や芸妓を派遣してもらい、遊宴を催す会場です。
現代でいえば、「揚屋」が料亭やホテルの宴会場で、「置屋」がコンパニオンの派遣会社といったところでしょうか。
揚屋のなかでも角屋は伝統があり、幕末には、久坂玄瑞、西郷隆盛などの勤王の志士が密議を交わしたり、豪商からの資金調達のために接待に使用されていました。
建物の北東の角には、「長州藩士久坂玄瑞の密議の角屋」と刻まれた石碑があります。
でも、なんで久坂玄瑞なんでしょう?
ここで密議を交わしたのは久坂だけじゃないだろうに・・・。
歴史を感じさせてくれる建物の外観です。
説明板には、ことさら江戸の吉原とは違う、ということが強調されています。
島原のこだわり、京都人の気位の高さでしょうか。
角屋が営業していたのは昭和60年(1985年)までで、その後は「角屋もてなしの文化美術館」として一般公開されています。
入口です。
入口の隅には、「新撰組刀傷の角屋」と刻まれた石碑があります。
島原は、新選組屯所の壬生から近かったこともあって新選組との縁が深く、ここ角屋は芹沢鴨が馴染みでした。
文久3年(1863年)6月、芹沢は宴会の席で店の対応に腹を立て、店中を破壊するほど暴れまくったといいます。
そのときの刀傷が今も残っているそうで・・・。
門をくぐると、早速その刀傷が迎えてくれます。
たしかに、ざっくりいってますね。
酒乱で真剣を振り回されたら、たまったもんじゃなかったでしょうね。
でも、これほどの傷が入るほど柱に刀を打ち込んだわけですから、芹沢自身も手首を傷めたんじゃないでしょうか。
刀傷の横には、角屋の暖簾が。
建物の中に入ります。
国の重要文化財に指定されているという建物ですが、建築物は門外漢なので解説はできません。
しばし、写真を御覧ください。
店内には新選組や久坂玄瑞などの古文書が多数展示されていましたが、撮影禁止だったので、紹介はできません。
刀箪笥があります。
こちらは、西郷隆盛が行水した盥なんだとか。
ほんとかなあ。
その説明板です。
なんと、角屋の解体の危機を救った盥なんだそうで・・・。
廊下を奥に進むと、角屋で最も大きなお座敷、松の間があります。
ここで、諸藩の大宴会が行われていました。
文久3年9月16日か18日(1863年10月28日か30日)、新選組はここ松の間で芸妓総揚げの宴会を開きました。
その後、芹沢鴨は八木邸に帰って平山五郎、平間重助、それから馴染みの芸姑らと再度飲み直し、泥酔状態で就寝したところを、派閥争いで敵対していた近藤勇一派に襲われて絶命しました。
つまり、ここ松の間は芹沢の今生最後の宴会の場だったわけです。
松の間から見た庭です。
芹沢が最後に見た景色といっていいでしょう。
庭に面する縁側の上には、3mに張り出した軒があります。
これほど長い軒でありながら、支えの柱がどこにもないのは、庭の鑑賞の妨げにならないように配慮されたものなんだとか。
でも、そのためには、3mの軒を柱なしで支える構造設計が必要なわけで・・・。
たぶん、計算しつくされてつくられているんでしょうね。
部屋も庭も、そして軒までもが「お・も・て・な・し」の精神で作られた揚屋・角屋。
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by sakanoueno-kumo | 2018-08-02 23:33 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)