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西郷どん 第36話「慶喜の首」その1 ~鳥羽・伏見の戦い~

慶応4年1月2日(1868年1月26日)、薩摩藩との戦いを決意した徳川慶喜は、朝廷の判断を仰ぐために1万5千の大軍を大坂から京へ進めます。これに対して薩摩藩を中心とした新政府軍は、鳥羽の鴨川に架かる小枝橋から東にある城南宮に向けて東西に長い陣を布いて北上軍への備えとし、また、伏見の御香宮にも砲兵部隊を配置します。3日午前、旧幕府軍と新政府軍が小枝橋で接触します。旧幕府軍を率いていたのは大目付滝川具挙でした。滝川はこの1週間前の慶応3年12月25日(1868年1月19日)に起きた江戸の薩摩藩邸焼討事件の報を慶喜にもたらし、江戸での薩摩藩士の横暴を説き、旧幕府軍を強硬論に導いた人物でした。


滝川は立ちふさがった新政府軍に対して「将軍様が勅命で京に上がるのだから通せ」と要求します。ところが、ここを守備していた薩摩藩の椎原小弥太は、「朝廷に確認するまで待て」と、行く手を阻みます。そこから長時間にわたって「通せ」「通さない」押し問答が繰り返され、このままでは埒が明かないとしびれを切らした滝川は強行突破を試みますが、これに対して新政府軍が発砲し、これをきっかけに戦闘がはじまります。この砲声は3kmほど南の伏見にも届き、それを合図に同時スタートのように戦闘が始まりました。後年、西郷隆盛がこのときのことを回顧して、「鳥羽一発の砲声は百万の味方を得たるよりも情しかりし」と語って笑ったという有名なエピソードがありますが、まさに、西郷にとっては待ち望んだ開戦でした。こうして鳥羽・伏見の戦いの火蓋は切られます。


 戦のあらましは長くなるのでここでは省略しますが、徳川方の指揮不統一戦術の拙さが相まって、旧幕府兵、会津兵、桑名兵ともに各所で後退を余儀なくされ、初日の戦いは薩長軍の優勢で終わりました。この初日の戦況が、結果的に決め手となります。

 開戦の報が届いた京都では、すぐさま御所で会議が開かれ、大久保利通の意向を受けた岩倉具視は、仁和寺宮嘉彰親王を軍事総裁職兼任・征討大将軍に任命し、錦旗・節刀をさずけることと、諸藩に慶喜討伐を布告することを求めますが、慶喜を朝敵とすることに異論が続出し、なかなか結論が出ませんでした。しかし、前線から薩長軍優勢の報告が入ると、会議の空気が一変し、慶喜討伐が決定します。薩摩・長州が官軍、旧幕府軍をはじめ会津、桑名が賊軍に転落した瞬間でした。翌日、仁和寺宮が錦旗を掲げて東寺まで進み、ここに慶喜討伐の大本営を置きます。錦旗とは、新政府軍が天皇の軍隊であることを示すもので、この時点で、すなわち新政府軍は官軍、旧幕府軍は天皇に逆らう賊軍ということになったわけで。これまで形勢を展望していた諸藩も、これを見た途端になだれを打って旗幟を鮮明にしていきます。ここに、鳥羽伏見の戦いの大勢は決したといえます。まさに、「勝てば官軍、負ければ賊軍」という言葉どおりの展開だったわけですね。


西郷どん 第36話「慶喜の首」その1 ~鳥羽・伏見の戦い~_e0158128_11234954.jpgこの「錦の御旗」ですが、実は朝廷からもらったものではなく、岩倉具視が勝手に作った代物だと言われていますね。いずれ始まるであろう旧幕府との開戦に備えて、岩倉が秘書官の玉松操に調べさせた資料を参考に、大久保利通や長州の品川弥二郎らと相談して作ったものだと言われています。実物は誰も見たことがないわけですから、それらしければいいということで、大久保利通の愛妾のおゆうが祇園で買ってきた錦紗銀紗の布を長州に運んで、2ヶ月がかりで完成させたもので、いわば捏造品だったわけです。偽物であれ何であれ、かつて南北朝時代でも足利尊氏が戦局を有利にするために御旗を利用したように、このときの錦の御旗も絶大な効力を発揮します。そもそも、本来この戦いに朝廷は関係なく、薩長と旧幕府の私闘だったのですが、この錦の御旗を掲げたことにより、戦いを「義戦」にしたわけです。自分たちから喧嘩を吹っかけておいて、相手が挑発に乗ってきたら、「正義」を主張する。ずるいですね。それにしても、御旗の納品がよく間に合いましたね。もうちょっと製作が遅れていたら、戦いは違った結末を見ていたかもしれません。


西郷どん 第36話「慶喜の首」その1 ~鳥羽・伏見の戦い~_e0158128_17320084.jpg ちなみに、この戦闘中に西郷の実弟、西郷従道が負傷したというのは実話です。従道はこの戦いに薩摩藩小銃五番隊の監軍として従軍していました。従道が受けた銃弾は頭部だったようで、ドラマでは描かれていませんでしたが、このとき駆けつけた中村半次郎(桐野利秋)が、もう助からないと早合点し、「武士の情け」とばかりに介錯しようとしたところを、従道は重傷の身に鞭打って桐野の刃をかわし、かろうじて逃れたという逸話が残っています。その後、従道はイギリス人医師のウィルスによる麻酔手術で奇跡的に助かり、同年のうちに戦線への復帰も果たしました。もし、このとき桐野に介錯されていたら、のちの海軍大将、元帥、参議、元老としての従道の活躍は存在しなかったといえます。よくぞ逃れたものです。


薩長軍が錦旗を掲げたことにより賊軍となった旧幕府軍は、その後も各地で奮戦はするものの、敗色は覆い隠せませんでした。そして極めつけとなったのは、幕府の命令で山崎を守っていた津藩兵が、6日朝、旧幕府軍に向けて砲撃を開始したこと。味方であるはずの津藩の裏切りで、旧幕府軍の士気は一気に下がり、全軍総崩れとなります。

 開戦以来ひきつづき敗報ばかりを受け、さらに錦旗が掲げられて朝敵にされたことで戦意を失っていた徳川慶喜は、6日の津藩の寝返りによる幕軍総崩れを知ると、江戸へ帰って再起をはかる決意をかため、6日夜、ひそかに大坂城を脱出し、海路江戸へ向かいます。このとき、老中はじめ京都守護職の松平容保や京都所司代の松平定敬も、慶喜の厳命により、家臣たちを置き去りにして江戸へ向かうことを余儀なくされました。翌朝、主君に欺かれたことを知った大坂城中の将兵たちが、呆然自失となったことは言うまでもありません。

西郷どん 第36話「慶喜の首」その1 ~鳥羽・伏見の戦い~_e0158128_19210653.jpg このときの行動が、後世に徳川慶喜という人物の評価を下げた最大の要因であるといっていいでしょう。戦の総指揮官という立場にありながら敵前逃亡したわけですから、やむを得ない評価かもしれません。このあたりが、「百の才智があって、ただ一つの胆力もない。」といわれるところでしょうか。ただ、その一幕だけを切り取ってみればそうかもしれませんが、結果的に彼が敵前逃亡したことによって、その後の内乱は最低限の局地戦ですみ、その結果、多くの人命を失うことなく、新政府樹立へのプロセスをスムーズにし、日本の植民地化を目論む欧米列強につけ入る隙を与えませんでした。それが慶喜の意とするところだったかどうかは別として、結果的に我が国を危機から救ったことは間違いありません。幕末維新の最大の功労者は徳川慶喜だった・・・とは、少し過大評価かもしれませんが、もう少し高く評価してあげてもいいんじゃないでしょうか。


鳥羽・伏見の戦いだけでずいぶん長くなっちゃいました。どうも、前半のスローな展開のツケがたまって、ここに来て1話に多くの歴史を詰め込みすぎですね。当ブログでも、1回ではとてもまとめられない。ということで、明日に続きます。



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by sakanoueno-kumo | 2018-09-24 17:42 | 西郷どん | Trackback | Comments(0)  

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