幕末京都逍遥 その144 「伏見長州藩邸跡」
前稿で伏見薩摩藩邸跡を紹介したので、続いて伏見長州藩邸跡を訪れないわけにはいきません。
薩摩藩邸跡より800mほど南下した寺田屋の近くに、長州屋敷がありました。
現地説明板によると、長州藩邸がこの地に置かれたのは江戸時代中期ごろと考えられているそうです。
元治元年7月19日(1864年8月20日)の「禁門の変(蛤御門の変)」の際、長州軍は嵯峨天龍寺と山崎天王山、そして、ここ伏見長州藩邸の3ヶ所に陣を布き、進軍を開始しました。
嵯峨天龍寺には来島又兵衛が、山崎天王山には久坂玄瑞や久留米藩士の真木和泉が、そして、ここ伏見には家老の福原越後(元僴)が宿営していました。
変当日、福原越後率いる500の兵は、竹田街道から北上すべく進軍しましたが、途中で会津、桑名、大垣藩と遭遇して衝突。
しかし、多勢に無勢で敗走し、一度藩邸に戻ったうえで体制を整えようとするも、京橋から彦根藩の砲撃を受け、ここ伏見藩邸も焼失してしまいました。
結局、戦いは1日で決し、長州軍の大敗北で幕を閉じます。
その後、福岡は帰国しますが、第一次長州征伐の戦後処理に際して、交渉に来た薩摩藩の西郷隆盛の要求によって、福原越後は他の二家老とともに切腹の沙汰を受けました。
享年50。
伏見の藩邸を失った長州藩は、以後、鳥羽・伏見の戦いまで京都に足を踏み入れることができなくなります。
もっとも、水面下では他藩士に扮して多くの長州藩士が紛れ込んでいたようですけどね。
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by sakanoueno-kumo | 2018-10-05 01:49 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)