幕末京都逍遥 その145 「伏見土佐藩邸跡」
前稿で伏見長州藩邸跡、前々稿で伏見薩摩藩邸跡を見て回ったので、となれば、次は土佐藩邸跡に行かないわけにはいきません。
土佐藩邸跡の石碑は、長州藩邸から300mほど東に建てられています。
慶応4年1月3日(1868年1月27日)に始まった鳥羽・伏見の戦いで、土佐藩兵は警備についてはいましたが、前藩主の山内容堂は、この戦いは薩摩・長州と会津・桑名の私闘と考え、戦いに参加しないように藩士たちに命じていました。
前年に薩摩藩と同盟を結んでいた土佐藩でしたが、土佐藩は薩長と少し事情が違っていました。
関ヶ原の戦いで徳川家に楯突いた島津家、毛利家と違い、山内家は関ヶ原の戦いの戦功で土佐国24万石を与えられた歴史を持つ徳川家恩顧の大名でした。
なので、容堂としては、できるだけ徳川家と敵対したくなかったんですね。
しかし、藩大目付の板垣退助が、戦いが起こったときには薩摩藩に味方するように藩士たちに言い含めていたため、一部の兵が容堂の命令に背いて薩摩藩に加わり戦いました。
板垣はもとより武力倒幕論の持ち主で、薩長に遅れまいと水面下で動いていたんですね。
その甲斐あって、のちの明治政府では土佐藩が薩長土肥の3番手の座に座ることとなります。
しかし、1、2番手と3番手の差は、あまりにも大きかったのですが。
伏見薩摩藩邸跡の石碑には坂本龍馬の名が刻まれていましたが、こちらには石碑にも説明板にもまったくその名がありません。
寺田屋には頻繁に出入りしていた龍馬でしたが、ここ土佐藩邸には寄り付くことはほとんどなかったようです。
脱藩浪士という立場ですから、当然ですが。
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by sakanoueno-kumo | 2018-10-06 15:01 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)