幕末京都逍遥 その149 「魚三楼(弾痕)」
「その147」で紹介した伏見奉行所の近くにある料亭・魚三楼には、慶応4年1月3日(1868年1月27日)に勃発した鳥羽・伏見の戦いにおける銃撃戦でできたとされる弾痕があります。
城下町である伏見は、L字路、T字路といった敵から見通せないように工夫された街路がいくつも組み合わさった「遠見遮断」と言われる構造になっています。
そのため、鳥羽伏見の戦いの際には、見通しの悪い街路を挟んで激しい市街戦が繰り広げられ、沿道の家屋の多くも戦災に遭いました。
この魚三楼があった京町通も激戦の舞台となりました。
そのときの弾痕と伝えられるのが、表格子に残るこれです。
生々しいですね。
現在も残されている「両軍伏見市街戦概要図」では、この京町通りの南側に新選組が布陣していたといわれているそうで、あるいは、新選組の残した弾痕かもしれません。
このとき最も勇敢に戦ったといわれるのが、土方歳三率いる新選組と、林権助率いる会津砲兵隊だったと言われています。
魚三楼は明和元年(1764年)創業という歴史をもつそうです。
鳥羽伏見の戦いでは、薩摩軍のまかないも担当していたといいます。
この戦いで伏見一帯は焼け野原になりますが、幸い、この建物は焼失を免れ、この弾痕を後世に伝えてくれました。
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by sakanoueno-kumo | 2018-10-13 00:20 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)