幕末京都逍遥 その152 「城南宮」
「その150」で紹介した小枝橋から300mほど東にある城南宮は、慶応4年1月3日(1868年1月27日)に始まった鳥羽・伏見の戦いの際、薩摩軍が陣を布いた場所です。
鳥羽街道を北上してきた旧幕府軍に対して、薩摩藩を中心とする新政府軍は、ここ城南宮から小枝橋方面に東西に長い陣を布いて北上軍への備えとしました。
境内には、鳥羽・伏見の戦いを説明する駒札が建てられています。
この大鳥居からの参道に、薩摩軍の大砲がズラリと並んでいたと伝えられ、明治に入って描かれた合戦絵巻にも、ここに大砲が並んでいる様子が描かれています。
「その150」でも紹介しましたが、鳥羽・伏見の戦いの戦端は、薩摩軍が放った一発の砲によって開かれました。
その最初の砲は、ここ城南宮に置かれた砲だったという説もあります。
ニノ鳥居です。
舞殿です。
わたしがここを訪れたとき、本殿は改修工事中でした。
後年、西郷隆盛が鳥羽・伏見の戦いを回顧して、
「鳥羽一発の砲声は百万の味方を得たるよりも情しかりし」
と語って笑ったという有名なエピソードがありますが、薩摩は、自分たちが起こした革命を完成させるため、手に入れた権力を盤石にするために、どうしても戦争がしたかったんですね。
だから、一旦は恭順を公言していた旧幕府軍を挑発し、無理にけしかけて戦争に持ち込みます。
しかも、偽の錦旗まで用意して。
これって、すでに瀕死の状態にある日本に対して、戦争を終らせるためといって原爆を投下したアメリカ軍と同じですよね。
歴史を否定するつもりはありませんが、歴史を歪曲して賛美するのも好きではありません。
鳥羽・伏見の戦いは「義戦」ではありません。
薩長と旧幕府との「私戦」です。
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by sakanoueno-kumo | 2018-10-20 00:01 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(2)
私も先日、大河ドラマで紹介されていたので行ってみたいなと思っているところでした。
「歴史は常に最終の結果によって判定される」と言ったのは、ナチスの工業大臣だったシュペーアだったと記憶しておりますが、私戦か義戦かの論も結局、そういうことでは。
所詮、勝てば官軍ですから。
おっしゃる通りです。
歴史の中でも、とくに戦史は、勝者の都合の良いように作られるもので、基本的に敗者側の記録は残りませんから。
その意味では、幕末維新史および明治史は、薩長史観によって恣意的に作られた虚構なんだなあと、最近、休日になると史跡めぐりをして石碑などの碑文を読むと、つくづくそう思います。
といっても、逆に、薩長史観を全否定して明治維新そのものを悪と説く昨今流行りの風潮も、それはそれで穿ち過ぎで好きではありませんが。