幕末京都逍遥 その161 「幕府軍野戦病院の地・戊辰役東軍戦死者埋骨地(長圓寺)」
「その160」で紹介した東運寺の隣にある長圓寺にも、これまで紹介してきたものと同じ鳥羽・伏見の戦いで戦死した旧幕府軍の戦死者を供養する墓碑があります。
山門の向かって右横には、「鳥羽伏見の戦い幕府軍野戦病院の地」と刻まれた石碑があります。
ここは、慶応4年1月5日(1868年1月29日)にこの1kmほど北で起きた千両松の戦いでの負傷者が収容され、野戦病院の役割を果たした寺と伝えられます。
寺伝によると、八幡大菩薩の化身である足立観音を安置する長圓寺を新政府軍が攻めることは恩を背くことになるため、ここが戦場となることはなかったと伝えますが、そういう信心深い理由よりも、おそらく当時でも、野戦病院は攻撃しないというのちの赤十字精神のような暗黙のルールはあったんじゃないでしょうか?
武士の情けってやつですね。
山門の向かって左横には、「戊辰之役東軍戦死者之碑」と刻まれた石碑があります。
これは、「その158」で紹介した妙教寺にあったものと同じで、明治40年(1907年)に京都十七日会によって挙行された東軍戦死者四十年祭典の際に建てられたものだそうで、揮毫は榎本武揚によるものだそうです。
千両松の戦いでは新選組のメンバーの多くが戦死しますが、その後、生き残ったメンバーは榎本武揚が率いる幕府所有の軍艦で江戸に撤退します。
その際、土方歳三が榎本に、ここ長圓寺に助けられたことを話し、それを記憶していた榎本が、ここに石碑を建てたというのですが・・・。
この話も、寺伝によるものなので、事実かどうかはわかりません。
境内には、これまで紹介してきたものと同じ「戊辰役東軍戦死者埋骨地」と刻まれた墓碑があります。
ここは、「その159」で紹介した光明寺が廃寺になったあと、そこに葬られていた墓が移葬された
と伝わります。
ここまで見てきたとおり、淀城の周辺の寺の多くに鳥羽・伏見の戦いの旧幕府兵が葬られています。
なぜか。
それは、敗色濃厚となって退却してきた旧幕府兵の入城を、淀城が拒否したからなんですね。
これにより旧幕府軍の敗北は決定的となり、このあたりで多くの兵が戦死しました。
次稿では、その淀城を紹介します。
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by sakanoueno-kumo | 2018-11-10 00:53 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)