2017年 03月 08日 ( 1 )

 

太平記を歩く。 その23 「烏帽子形城跡」 大阪府河内長野市

千早赤阪村の隣、河内長野市にある烏帽子形城跡にやってきました。

ここは、元弘2年(1332年)に楠木正成上赤坂城支城として築城したといわれ、楠木七城のひとつとされています。


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烏帽子形城跡は国の史跡に指定されており、城跡公園として整備されています。


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城跡は標高182m烏帽子形山の山頂にあり、北と西は断崖でその足元には石川、東側は河岸段丘が広がり天見川に落ち込んでいます。

したがって、東西北の三方は川に囲まれ、南方のみを開けた構造で外堀の役割を果たしています。
ここは京と堺と高野山を結ぶ東高野街道西高野街道高野街道に合流する地点で、河内国から和泉国へ抜ける河泉街道、紀伊国とを結ぶ九重道、大和国へは大沢越えの道などが分岐しており、交通の要衝でした。


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登城道は公園整備されているので歩きやすく、15分ほどで本丸跡までたどり着きます。

ただ、勾配は結構キツイです。


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見事に土塁跡が残ります。


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本丸跡です。

それほど広くはありません。


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本丸跡に設置された復元予想図です。


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築城時は、楠木正成の部将・高向氏が籠もって戦ったと伝わります。

その後、応仁の乱以後は守護畠山氏の持城となり、たびたび戦場となります。

天正年間には橘長治が城主となり、大阪夏の陣後の元和3(1617年)に廃城となります。


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本丸跡から見た北側の眺望です。

ここからも、某教団の平和の塔が見えます。


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二ノ丸跡です。

本丸跡はそれほど広くありませんでしたが、二の丸跡は結構な広さです。


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めちゃめちゃ立派な堀切跡です。


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とにかく、遺構の保存状態が良好で、THE城跡・・・といった感じです。


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城跡公園内には、烏帽子形古墳もあります。

6世紀後半から7世紀にかけてのものと考えられているそうです。


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烏帽子形山の東麓には、烏帽子形八幡神社があります。


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楠木一族の楠小二郎という人物が創祀したものと伝えられ、その後、しばらく荒廃していましたが、烏帽子形城が廃城となった元和3年(1617年)、楠木一族の後裔といわれる甲斐荘喜右衛門正保が改修したそうです。


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本殿は国の重要文化財に指定されています。


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本殿の向かいには「楠公武威松」と刻まれた石碑と、古い切株が祀られたがありました。


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説明板によると、楠木正成が湊川の戦いに出陣の折、武運を祈願して植えたとされる老松の巨木「楠公武威の松」がこの場所にあったそうですが、昭和9年(1934年)の室戸台風で倒れ、樹齢約600年の寿命を閉じたそうです。

その老木を輪切りにして祀ったのが、これだそうです。


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ガラスが反射して、写真ではよくわかりませんね。


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さて、次稿も楠木七城のひとつを訪れます。




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by sakanoueno-kumo | 2017-03-08 20:38 | 太平記を歩く | Comments(0)