2017年 05月 10日 ( 1 )

 

太平記を歩く。 その49 「船上山行宮跡(後編)」 鳥取県東伯郡琴浦町

前稿の続きです。

標高616.5m地点に建つ「船上山行宮之碑」の丘をあとにし、「後醍醐天皇行宮跡」への誘導案内板に従ってさらに尾根道を奥に進みます。


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船上山は、平安時代の初期ごろ(約1,200年前)から山岳仏教が栄え、大山、美徳(三徳)山とともに伯耆三嶺とよばれた修験道の零場だったといいます。

後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)と名和長年らがこの地で挙兵した頃、この山には金石寺という寺院があったと伝わります。


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しばらく進むと、石段石垣の遺構があります。

おそらくこれは、その金石寺の後身・智積寺のものと思われます。

智積寺とは、室町時代後期の享禄3年(1530年)に創建された寺院です。


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山道の左右には、「寺坊跡」とみられる削平地が何箇所もあります。

当時の智積寺の繁栄ぶりがうかがえますね。


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この「寺坊跡」は、かなりの面積です。


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道中、「船上山古石塔群」と記された案内板がありました。

それに従って進んでみると、古い五輪塔宝篋印塔が100基以上、苔むした状態で乱立していました。


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形から察するに、鎌倉時代末期から室町時代中期のものかと思われます。


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その時代、立地から考えて、おそらく寺院関係の墓域かと思われますが、あるいは、後醍醐天皇らが挙兵した「船上山の戦い」での戦死者の墓だったりするかもしれません。


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それにしても、保存状態がよろしくなく、荒れ放題です。

数少ない中世墳墓の貴重な遺跡といえます。

船上山は国の史跡にも指定されているわけですから、なんとか維持管理できないものでしょうか?


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山頂の船上神社が見え始めた少し手前に、「文保二年銘台石」と名付けられた石塔の台石があります。

その説明板によると、後醍醐天皇が即位した文保二年(1318年)の年号が刻まれているそうで、鎌倉時代の僧・良賢によって建てられたものだそうです。

後醍醐天皇がこの地に籠もったのが元弘3年/正慶2年(1333年)ですから、その当時、すでにこの石塔があったということですね。


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そして、標高687m付近にある船上神社です。


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船上神社は、かつては船上山三所権現といい、寺僧が奉仕していたそうですが、明治11年(1876)の神仏判然令によって本尊等を山下の法蔵院に戻し、奥ノ院のご神体を権現社に移して、船上神社としたそうです。


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拝殿です。

戦後、正道館の講堂を移築したものだそうです。


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本殿です。

昭和9年(1934年)に船上山史跡保存会によって再建されたものだそうです。


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そして本殿から200mほど西に進むと、奥の院があります。


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奥の院には、後醍醐天皇が祀られているのだとか。


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船上神社の北側には、金石寺本堂跡(推定)があります。


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説明板によると、承和6年(839年)鋳造で「伯耆国金石寺」の銘が残る梵鐘が、現在も福岡県福岡市早良区にある西光寺国宝として保存されているそうで、そのことから、約1200年前には既にこの地にあったことがわかっています。


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船上神社の南側には、智積寺本堂跡があります。


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金石寺は南北朝時代の争乱に巻き込まれて衰退してしまいますが、室町時代後期の享禄3年(1530年)に智積寺として再興されました。

しかし、天文13年(1544年)に尼子氏と山名氏の戦乱により焼失。

これ以後、本堂は再建されていないそうです。

その後、太閤検地による寺院の没収などにより、文禄年間(1592~1595年)に山上の寺院を解散したそうです。


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で、本稿のメイン、船上神社の本堂と奥の院の間に、「後醍醐天皇行宮跡」があります。


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後醍醐天皇を奉じた名和長年らは、攻め寄せる隠岐守護の佐々木清高軍と激しい戦いを繰り広げます。

『太平記』によると、3000余りの佐々木軍に対して名和軍は僅かに150余り

しかし、名和長年は木に数百の旗をくくりつけて自軍を大軍であるかのように見せかけるなどの策を講じ、3日間の激戦の末、佐々木軍を打ち破ります。


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戦いに勝利した後醍醐天皇は、その後も約80日間この地に留まり、全国の反北条派の武士たちに檄を飛ばすなど、倒幕に向けての政治工作を執り行ったといいます。

いわば、倒幕の聖地といえますね。

そんな歴史を踏まえ、昭和7年(1932年)5月、「船上山行宮跡」として国指定の史跡となりました。


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ただ、当時は行宮跡の正確な場所が確定できず、頂上一帯が指定区域となっていたそうで、第二次世界大戦後に調査研究が進み、地元史の『伯耆民談記』に見られる「本社より乾に當りて三丁計り去り東西十四丁、南北十五丁の地あり、境内廣平にして辰巳の方に門の跡あり」という記述から、後醍醐天皇行宮跡をこの地と推定したそうです。


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行宮跡と船上神社の間には、樹高23m、幹周囲5.6mの杉の大樹が聳えます。


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推定樹齢1000年だとか。

後醍醐天皇の挙兵時にも、既に樹齢300年の大樹だったことになりますね。

歴史の守り人・・・もとい、守り樹といえるでしょうか。


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最後に、麓の船上山ダムから見上げる船上山屏風岩

絶景です。

この山が太古の昔から山岳信仰の対象となってきたことがわかりますね。

この『太平記を歩く』シリーズを続けるにあたり、当初は車で片道2時間程度以内で行ける関西の史跡をめぐる設定で、ここ船上山はリストに入れてなかったのですが、進めていくうちに、どうしてもこの神秘的な景色が見たくなり、このGWに神戸から片道4時間かけてこの地にやってきました。

いや~、来てよかったですね。




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by sakanoueno-kumo | 2017-05-10 23:59 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)