2017年 07月 10日 ( 1 )

 

おんな城主 直虎 第27話「気賀を我が手に」 ~義信事件と瀬戸方久城主説~

武田義信、まだ死んでなかったんですね。幽閉の報せが届いたのがずいぶん前(たしか18話)だったので、てっきりもう死んじゃったとばかり思っていました。井伊直虎が城主になって以降、物語の進行がひじょうに緩やかなので、時代背景がわからなくなります。


 義信の幽閉、廃嫡からそのまでを簡単におさらいしておくと、永禄8年(1565年)、義信の傅役である飯富虎昌、側近の長坂源五郎(昌国)曽根周防守らが武田信玄暗殺を企てるも、計画は事前に虎昌の実弟・飯富三郎兵衛によって露見し、同年10月、虎昌ら側近たちは謀反の首謀者として処刑されます。その後、義信は甲府の東光寺に幽閉され、義信の正室で今川義元の娘・嶺松院(実名は不明)と強制的に離縁させられ、嫡子としての地位も異母弟の武田勝頼に奪われます。そして2年後の永禄10年(1567年)10月19日、義信は幽閉先にて死去しました。享年30


 ドラマではその死を自害と伝えていましたが、病死という説もあって定かではありません。また、自害説のなかでも、絶望した義信が自らの意志で自害したという説と、信玄に命じられて切腹したという説があります。昭和最後の大河ドラマ『武田信玄』では、前者の設定でしたね。まあ、どんな感情のもつれがあろうと親子ですから、父親が息子を死に追いやったとは思いたくありませんが、一方で、義信と信玄父子の仲は決して良好なものではなかったともいわれ、対今川氏の方針をめぐって父子の間で対立を深めると、親今川派を一掃するために、信玄自身が自身の暗殺計画をでっち上げて粛清したという見方もあります。さすがは戦国時代、親子といえども血も涙もない話ですが、しかし、見方を変えると、飯富ら側近がすぐさま処刑されたにもかかわらず、義信は2年間生きながらえたことを思えば、やはり、そこには親心があったのかなぁ・・・とも。結局のところ、真相は藪の中です。


 ただ、いずれにせよ、この義信の死が今川氏真にとって大打撃だったことは間違いないでしょう。今川氏にとって武田義信夫妻は武田氏との唯一の架け橋であり、これを失うということは、武田氏との国交断絶、全面対決を意味します。義信の死の翌月には、嶺松院が駿河に送り返されています。ドラマの氏真、荒れてましたね。


 で、話は変わって気賀堀川城ですが、なんか色々あったすえに井伊家が治めることになりましたが、実際には、そのような説は存在しません(たぶん)。ただ、瀬戸方久城主を務めたという説は存在します。というのも、この時期、方久は今川氏真に取り入り、自身の田畑や屋敷を徳政令の対象外とする安堵状を得る代わりに、堀川城、刑部城などの築城の費用を請け負っていたといわれます。また、堀川城の城代として入った大沢基胤配下の新田友作という地元領主が、後年、出家して「法休喜斎」と名乗っていたそうで、これらの逸話から、新田友作と瀬戸方久が同一人物ではないか、というんですね。まあ、俗説ではありますが、ドラマでは、方久は井伊家の家臣という設定ですから、方久が城主(あるいは城代)になるのであれば、堀川城は井伊家のものということになるんでしょうね。


 もっとも、盗賊団が城の普請をするなんて話は、古今東西聞いたことがありません。まあ、城といってものようなものだったでしょうから、気賀の領民が工事を手伝ったということはあったかもしれませんが、設計を任すなんてことはありえません。盗賊に設計なんてさせるから、あんなヘンテコリンな城になっちゃうんですよ。満潮干潮を利用した画期的な設計だそうですが、湖といえども荒波もあれば高波もあります。あの城、波浪警報が出たら一巻の終わりだと思いますよ。


 「大したものだ」(政次)


どこが!!!(笑)



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by sakanoueno-kumo | 2017-07-10 21:41 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)